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経済原理と気持ちの問題。

えーと、すいません今日は毒入りエントリです;。今朝、つらつらとテレビを見てたらこんな話題が。

これ、何かというと、岐阜の市立岐阜商業高校を立命館に移管することで、20~30 億円かかるとみられる公舎の建て替えを立命館に担ってもらおうとするプロジェクトが頓挫した、という話。財政面では魅力的な提案であり、かつ少子化による高校再編の流れを鑑みれば移管自体は合理的な選択肢で、当初、岐阜市長は「100年に1度のチャンス」とまで称して、岐阜市長がこれを推進。実際、そもそも岐阜県内の学校の運営費用すら岐阜県だけで賄うことができないような状況では公舎の建て替えなどできるはずもなく、立命館からの提案はまさに願ったり叶ったりの提案……なのですが、しかし母校を失うことになる OB/OG などからの反発が強く、岐阜県内でも意見が二つに分かれて対立状態に。結果的には今日の市議会で市立岐阜商業高校の廃止そのものが否決され、市長が辞任することで民意を問う流れになった、という顛末。

……なのですが。
この話、私としては「心情的には理解できるけれども、それはわがままなんじゃない?」と思うのです。

もちろん仔細を知らないし、土地と公舎については無償譲渡、といったキナ臭さがないわけではない。なのでわがままだと断定するには全く証拠不十分なのですが、問題なのは現実的に学校の存続のための資金をどうやって捻出するのかという話。反対している人たちとて、自分の私財を削って数十億円を捻出しろという話になったら絶対に無理、だと思うのですよね。手順を踏まなかった & 心情面に対する配慮が足りなかった市長や市議会にはそれ相応の責任が追及されてしかるべきだし、プロセスの透明化は当然行うべきだし、立命館との契約条件もきちんと見直すべき。けれどもそれ以前の問題として、建て替えコストをねん出できない学校を存続させようということ自体が、そもそも経済原理に反している。つまり、存続させるかどうかが問題なのではなくて、どうやって存続させるのかが問題なのに、「存続させることが決まりました(ただしどうやってかは未定)」、なんて、そりゃさすがにむちゃすぎる、と思うのです;。

実は同様のことをよく感じる話題として、地域格差問題があります。この話は以前、コンパクトシティ構想の話の中で取り上げたのですが、地方衰退の問題に関して、「今の暮らしは変えたくない、けれども生活水準は上げてほしい」というのはどう考えても甘えの構図。どちらにも共通する話は、要するにこういうことなのです。

  • 少子化の流れの中で、母校を存続させたいという思いは「ぜいたく」
  • 都市部への一極集中の時代の流れの中で、地方に住み続けたいという思いは「ぜいたく」

ここでいう「ぜいたく」というのは、確かにそれだけみればささやかな願いにも見えるけど、半面、それが経済原理的に見ると限りなく贅沢になっている、というもの。そのコストが自分たちで払えないにもかかわらず、「母校を存続させてほしい」「自分たちの住む地方をなんとかして欲しい」というのは無茶な話。そのために必要なお金は払えないのに、数の暴力で自分たちの要望を押し通そうとするのは、やっぱり「わがまま」じゃないかと思うのです。

# 正直、私はこういう類の「わがまま」を見てるとホントにイヤな気分になるのです><。
# その人たちの気持ちもわかるけど、そういうわがままを押し通そうとすること自体がものすごくイヤなのですよね。

生きていればどーにもならないことは実際あるわけで、私もその昔、生まれ育った生家を引き払って今の実家に移るときにやはりいろんな意味で寂しさを感じたものだし、自分の両親などは母校がすでにない。そういうふうに諦めなくちゃどーにもならないことなんて、世の中には山ほどある。気持ちの問題と、経済原理の問題とを混同して論じることは、問題の先送りにしかならないわけで、どんなに悲しくても寂しくても、今やらなくちゃいけないことはきっとたくさんあるはず。この話、心情的なものはいろいろあるでしょうけれども、建設的な議論に話が発展することを望まずにはいられません。うまいところに話が落ちてくれるといいんですけどねぇ……;。


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