04. 雑学 & 雑感の最近のブログ記事

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最近、Facebookをつらつら見ていて正直ぐったりすることが多くなってきたなぁと感じていたのですが、どうも理由がわからずモヤモヤ感が。そんな中、先日、「Facebookは意識高い系の連中がマウンティングしてリア充自慢する場と化してるんでしょ?」とバッサリ切り捨てる発言を聞いて、ああなるほどと腑に落ちてしまったり。

何を今さらと言われそうな気もするわけですが、もともとSNSがリア充アピールの場になっているという話はしょっちゅう聞く話だし、ぶっちゃけSNSやblogなんて多かれ少なかれ自己承認欲求が発端となって書かれている場合は非常に多い(このblogもそう;)。リア充アピールする方もされる方もそれに疲れてSNSから離れていく、なんていう話をよく聞くのですが、私自身は他人のリア充アピールそのものはそれほど気にならないことが多かった(つもり)だったんですよね。で、なんで最近それがやたらと気になるようになってきたのかというと、

自分が言ったこととやってることの矛盾に無自覚な人がかなり目につく。

たぶんこれ、なんですよねぇ;。いくつか例を挙げるとすると、

  • 自分は土日も全部仕事に費やしている、だから旅行も行けないけれどもみんなのためなので頑張る……と言いつつ、実際には仕事で各地を飛び回って美味しいものも食べてるし、挙句週末はないと言ってたはずなのになぜか土日に旅行しているエントリが;。
  • とある起業家が、最近の若い子はお金を稼ぐことしか考えてなくて嘆かわしい、なんて発言している。いやいやあなた、起業する前にさんざん私にお金の話ばっかりしていたでしょう、という;。

恐ろしいのは、うっかりそういう人たちがちょっと有名だったりすると取り巻き信者的な人が友達になっていて、いいね!が結構つくという;。ちょっとした閉鎖空間であるがゆえに、その人の社会的地位により、こういう矛盾のある行動が正当化されてしまう、そしてそれがその人の自己承認欲求を満たすのでどんどん悪循環的に書き込みが加速するという恐ろしい構図があって、あ゛~、これ自分ダメなヤツだわ;、と思ってしまったり。

モラルや善悪は社会的地位とは無関係に存在するもの(=社会的地位があれば黒が白になるわけではない)、という考え方自体が青い考え方なんだろうなぁ、とは思いますし、こういうのを見苦しいと思ってしまう(=うまくスルーできない)あたりも自分が自立できていない証左なんだよなぁと思いますが、幼い頃から染みついた考え方を変えるのはなかなか難しいものですね。

# などと偉そうに書いてる自分も絶対どっかでやらかしてるんだろうなぁ、とは思うんですが;。
# この手のミスは概して無自覚にやらかすもの;。なにはともあれ他山の石にしないと、です;。

ここ数日、不倫の話で晒されまくっている人がいるわけですが、ぜんぜん知らなくてネットをざっくりと巡回したところ、うあー;、こりゃひどいなぁ、という印象;。よもや自分の不倫の謝罪で、奥さん名義の謝罪文を自身のホームページに掲載したり関連各所に送付させたりするのは、もう頭おかしいだろうとしか言いようがない;;。どこぞの事務所が書いたにしても、これはさすがにないだろう、という印象。

後だしじゃんけんっぽい話で恐縮ではあるのですが、一時期ネット上で炎上したレストラン入店拒否事件を知ったときに感じたのは、この人、なんかむちゃくちゃ自我が肥大化してるなぁ……ということ。彼の前向きさは確かに多くの人々の共感を得たのでしょうが、いやいやそれは何やっても許されるってことじゃないよね、という;;。例の有名な某ベストセラーを読んだときにはそこまでのものは感じなかったので、きっとここまでの生活環境で自我が肥大化していったのかも。帯は自分でしっかり意識して締めておかないと、軽く緩んでくるものなのでしょうね;。

まあでも、こういうのはちゃんと締めた方がよいんじゃないかなぁという印象。TV 番組では少なからず擁護論が飛び出しているらしいですが、いやこれ理由の如何によらず擁護しちゃダメだろうと小一時間;。なんとなく世間の風潮と反対の意見を出せば気の利いたコメントっぽくなるとでも思ってるのだろうかという勘違いなコメントも多かったようで、おいおいと言わずにはいられなかったりします;。

それにしても……この人、これからいったいどうするんでしょうね;;。ああいった発言をする人が一番やらかしちゃいけないことをやらかしているだけに、果たしてどう始末するのやら;;。うーん。

さてさて、自分的に毎年大晦日のエントリはなんとなく一年間を振り返ってみるエントリにしてるわけなのですが、果たして今年は何を書いたものやら……というわけで今年を振り返ってみたわけですが、まあとにかく頭を悩ませたのは「健康」、その一言に尽きるよなぁと思ったり;。

歳を食うと健康であることの有難味が分かるとか、そもそも友達との話も健康の話ばっかりになる、とはよく聞く話ですが、あ゛ー、確かにそれわかるわかる、という感じに自分もなってしまったり;。今年は 2 月頃から急激に胃の調子を悪くして、随分よくなってはきたものの、結局のところは今に至っても完治はせず;。厄年ということもあって、そろそろ身体の曲がり角というのは知識としては知っていたものの、実際にその歳になって経験してみるとなかなかにつらいものがありますね;。というか、ぶっちゃけ今年はどれだけ医者に行ったのだろうと思わずにはいられなかったり。……確定申告で今年は結構戻ってくるのだろーか^^。

症状的には慢性胃炎、診断としては多分 FD じゃね? と言われ、ストレス減らさないと治らんよー、とは言われるものの、さてはてそうはいっても日常生活が簡単に変えられるわけでもない。お仕事だって年齢上がればそれなりにストレスのかかる仕事が必然的に増えてくるわけで、どうやって騙し騙しうまくやっていくかを考えるしかないわけですが、問題なのはこの歳になると自分の性格やライフスタイル、仕事への取り組み方をそうそう変えられるわけじゃない、というポイント。仕事でやった方がよいと思うことがあれば思わず手を出してしまうし、家で洗濯物が溜まっていればつい洗濯機を回してしまう、といった具合に積極的に三遊間ゴロを取りに行ってしまうのが自分の性分。当たり前のように自分にインプリメントされているものが、かえって自分を疲労させていることもあるわけですが、だからといって手放しにそうしたことをリリースできるかというと、これはこれで難しい。客観的に自分を眺め、そのスタイルを変革させていくというのは、やっぱり年齢行くと難しいんだよなぁというのを改めて実感した一年でもありました。

しかしそうはいってもそのままでいるわけにもいかないので、自分なりに意図的に優先順位を付けてスルーしてみたりとか、あるいは生活の中で自分のライフスタイルをモニタリングできる仕組みを組み込んでみたりとか、あれこれ試行錯誤中。自分を常に変え続けて進化させていかなければ生き残れない、というのが今の時代というもの。来年こそはもうちょっと健康に気を遣いつつ、さらに自分をうまく進化させていきたいものだと思ったりします。

そんなわけで今年も締めくくりなわけですが、最後に、おおお、そういや艦これ最近忙しくてやってないわ、ということで余っていた資源を投入して 2 回ほど回してみたところ。

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うおおおお、大鳳きたぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
って、やっぱり無心が一番ですか、そーですか^^。

そんなわけで、終わりよければすべてよし^^。来年はもっといいことがありますように~。ではでは、来年もまたよろしくお願いします^^。

先日、でじくま氏のサイトで見かけたエントリの話をひとつ。

> それにしてもマスコミの中の人でも真摯に事実に向き合う姿勢が見られる人もいるというのに、世に出る記事や番組になると事実と懸隔したフィクションがまかり通ってしまうのは何故なのでしょうか。作っていて良心が痛まないのか、プライベートの姿勢と仕事での姿勢の差がいつも不思議です。

仕事柄、マスコミ関係の方と会ったり仕事をしたりする機会が多いので、「あ゛ー」と思ってしまったのですが、多分理由はすごく単純で、「そうしないと食っていけないから」、なんでしょうね。昨今、新聞にしろ雑誌にしろ、とにかく読者数が減っているので業界的には右肩下がり。そうしたしわ寄せは当然ライターのところにも押し寄せるわけで、目を引く記事を書かないと、そもそも仕事を維持できないという問題があるのでしょう。ほとんどの人は、仕事でモラルを守ることよりも、自分や家族の生活の方が大切なもの。必然的に、プライベートと仕事を割り切って考える、二面性を持つ人が多くなるのでしょう。

仕事でモラルを守るためには、それ相応の実力が必要になる。誘惑の多いこの世の中でモラルを守るためには、よほどの自己規律と、それを押し通すだけの実力が必要なのだと感じます。確かに、今まで仕事で様々な人を見てきた感覚としては、仕事で長く生き残る人は、仕事でモラルを維持できる人だと感じているのですが(昨年末のエントリにも書きましたが)、それをし続けられる人というのはどんな業界でもなかなかに少ないのかもしれません。

まあそれにしても頭の痛いのは、日本の場合だと、常に信頼に足るようなメディアはほとんど存在しないということなのかも。実際、経済誌としてのデファクトである某社ですら大衆紙としての性格も持ち合わせており、書かれている内容を鵜のみにできない側面を持っている。事実に真摯に向き合うライターも多いだけに、ごくわずかのモラルに欠けるライターが全体の信用度を落とすというのは残念でならないのですが、その一方で、そうした状況を招いているのが我々読み手自身でもある、ということは認識する必要があるのでしょうね。いやだって、結局彼らは我々が読みたいものを書いているだけ、という側面もあるのですから。

ところで話の元になっているゆかりんの話は全然知らなくて、そんなことがあったのかと内心驚きつつも、ライブレポを調べたところリセット & リスタートが行われたとか。雨降って地固まるとでもいうか、この辺の王国民の成熟度の高さはさすがだなぁと感心したのですが、やはり参加人数が多くなるとちょっとおかしな人が出てきてしまうのは仕方のないところ、なのでしょうかね;。残念な話です。

さてさて、今年もついに大晦日。今年は去年までよりはちょっとはたくさん blog を書いている……とは思うのですが、とはいえ昔に比べたらまだまだ低いペース。こんな blog にお付き合いいただいている皆様に感謝しつつ、今年も何か締めくくりなエントリを書いてみようかと思ったり。……といっても例によってたいしたネタはないので;、今年もちょっとお仕事関係の話を書いてみようかと思ったりします。

実は今年の後半はむちゃくちゃ仕事が忙しかったのですが(というか今も忙しい;)、こんな状況に追い込まれているのは、とにもかくにも組織のひどさ;。いや~、その昔、「どんな組織にしたって、誰がマネージャやってもそんなに大差なんて出ないだろう」と思っていた時代もありましたが、すみません、大きな間違いでした;;。あ゛ー、組織って構造が悪いと本当に崩壊するのか、と肌身で感じた一年間でした。いやまあ、数年前からなんとなくこんな予感は感じてたのですが、やっぱりそうなのね、と;。

私のいる組織は数年がかりでの組織改革に取り組んでいて、今の本部長も、以前の本部長が鳴り物入りで指名・採用した人。最初の年は凄まじい売上を記録したものの、その後は成長が鈍化。このままいくと明らかにまずいよね、という状況になり、今年は大幅に組織構造を改変。さらなる飛躍のために予定を一年早めて組織を変えたと説明されたものの、根底には売り上げの減少傾向があり、そこへの起死回生の一発として投入された施策でした。けれどもまあ、ぶっちゃけ起死回生の一発って、ハイリスクハイリターンな施策なわけで、そんなにうまく成功するはずもなく、まあ見事なまでに散々な結果に;。

失敗した理由はいろいろあれど、なにより大きなところは、組織や人の状況を度外視して、トップダウンで枠組みを作ってきたところ。組織の人数がクリティカルマスを超えていない上に、人の成熟度も不足している状況で無理に導入されたため、レポートラインと実務ラインとがぐちゃぐちゃになって一気に組織が骨抜きに。加えてこういう状況になると、売り上げがよくないという理由で営業担当者をころころと買えるため、見込み案件がどんどん減っていく。悪循環が悪循環を呼ぶという最悪のサイクルに;。私は同じ組織に 10 年以上いて、本部長もその間に 4 回ぐらい変わっているのですが、結果、過去に類に見ないほどの業績悪化に。あ゛ー、これは何割の人が整理されるんだろう、という悲惨な状況になる始末;。

いやはやもうこれは「笑えばいいと思うよ」としか言いようがない状況なのですが;、組織構造がどれほど重要なのか、加えて上位層のディレクションがどれほど重要なのかというのを思い知った一年間ではありました。けれどもそんな組織の中にいて、それ以上にいくつかの大きな学びもありました。自分の備忘録的にまとめておくと、こんな感じ。

まず最初に、無理な成長は必ず身を亡ぼす、ということ。数年前、組織がゴール比で数十パーセント以上の成長をした折に、その余剰分を未来の投資に回すべき(例えばプリセールスだとか研究開発だとか)だと思ったのですが、本部長が取った施策は「行けるところまで行って記録を作ろう」というもの;;。おいおいありえねーだろ;、と思ったものですが、その結果は言わずもがな。比較に出すのも憚られるほどですが、例えば amazon なんかはどれだけ売上が伸びようとも、利益は出さずにとにかく投資にひたすら回す(こことかこことか参照)。この徹底したやり方には驚嘆するし、実際のところ多くの企業ではここまでの無茶はできないでしょうが、とはいえ未来への投資がどれほど重要なのかは明らかなところ。頑張ることは大切だけれども、身の丈を超えた成長を無理にしようとすると、必ずどこかが綻んで崩壊する、と思うのです。

次に、成長における最大のボトルネックは、人のスキルや成熟度である、ということ。これは組織を構成する人についても言えるし、ターゲットとしているお客様についても言えること。組織を構成する人がついてこられなければ、どんな施策も実現できないし、逆にお客様がついてこられなければ、どんなに優れたサービスも過剰サービスになってしまう。どちらがボトルネックになるのかはケースバイケースですが、往々にして問題になるのは社内の人材。数値化されない or しにくい領域なだけに、ここは本来はマネージャの肌感覚がモノをいう世界……なのですが、往々にしてマネージャは現場と分断しがちで、本部長は数字と本社ばっかり見て、現場を見ずに施策を作ることが多かったりします。が、それでうまくいくはずもない。サイバーフォーミュラじゃないけど、人も組織も同時に成長することが必要なんですよね。

しかし、人材を育てるというのは非常に難しいこと。そもそも人材は育てようと思って育てられるものではなく、どちらかというと自分の思惑を外れて勝手に育っていることの方が多いというもの。人が自ら育っていくためには、適切な環境や気付き、適度な負荷といったものが必要で、そのためには人材を守りすぎてはいけない。往々にして、仕事で失敗を恐れるようになると、部下やメンバーに対して、確実にできる仕事しか与えなくなるものですが、これをやってしまうと仕事の安定性が(一時的に)増す半面、徐々に人材が腐っていってしまう。新たなチャレンジをしなくなり、仕事は誰かが取ってきてくれるものだという思い込みが増し、上司に対して不満ばかりいうクレーマーが増えていく。結局のところは人材を子供のように甘やかしたことによるツケ。聞きかじった話で恐縮ですが、子供を子供として扱うといつまでたっても子供のまま、子供を小さな大人だと思って接することが躾の基本だとか。大人に対しても、実は同じ話が当てはまるのではないかという気がしていたりします。

そして最後に、仕事の根底に求められるのはやはりモラル(規範)だということ。精神論で仕事を語るのは、ビジネスマンとしては失格なのだろうとは思うのですが、その一方で、仕事の根底にモラルや規範は必要だとも思うのです。組織がこんなひどい状況に追い込まれたのは、表面的には成長時期に未来への投資を怠ったことであり、追い込まれたときに起死回生の逆転を狙ったことなのですが、その根底にあるのは、結局のところはモラルのなさ、だとも思うのです。「ダメなときには何やってもダメ」という諦めの覚悟も時としては必要だし、成長しているときにこそ気を引き締めることが必要なもの。根底にモラルや規範がないと、方針にしろ仕事の内容にしろ、追い込まれたときに歪さが出て崩壊しやすくなる、と思うのです。

まあこういう組織の話って、勝てば官軍負ければ賊軍というもので、後だしジャンケンのように何かを語るのは正直アンフェアなのだろう、とは思います。けれども、もしかしたら自分がいつか同じ立場に立たされたときのために、いろいろと思うところをまとめておくことはそれはそれで必要なのだろうとも思います。「人の成長」というのは多分自分にとって最大のテーマなんだけれども、自分も周りも一緒に成長していくというのは本当に難しい。答えがない領域ではあるけれども、慌てずに来年以降も少し取り組んでいきたいなーと思ったりします。

ま、でも来年は厄年なので、まずは健康に気を付けないと、ですねー;。皆様も健康にお気をつけて、良いお年をお迎えください。なにはともあれ、一年間ありがとうございました。また来年も、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

東京国立美術館に行った折、ついでに横にあるこちらにもふらっと立ち寄ってきました。

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国立科学博物館。おそらく小学生の頃などに来ているはずなのですが、ぶっちゃけ全く記憶になく;、おかげでまったく新鮮な気分でふらふらと見ることができました。……といっても閉館間際に入ったこともあり、入った直後に一度見てみたかったこちらに直行~。

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シアター36○。2005 年「愛・地球博」で人気を博した「地球の部屋」をそのまま移設したものなのだとか。直径 12.8m のドームの内側すべてがスクリーンになっており、中空に掛けられたブリッジに立って映像を楽しむというアトラクション。ムービーそのものは 5 分程度のものが 2 本立て構成になっているのですが、これが恐ろしくよくできている。自分たちが見たのは以下の 2 本。

  • 「恐竜の世界 –化石から読み解く–」
  • 「海の食物連鎖 –太陽からクロマグロをつなぐエネルギーの流れ–」

何がよくできているって、ムービーが完全な 3D 映像になっており、あたかも自由に空を飛んだり海に潜ったりする感覚が味わえるのですよ。しかもムービーそのものも非常によくできており、サイエンス好きな自分としてはなかなかに楽しかったです。いやはや、これは一見の価値があります。

ついでに周辺のフロアーをぶらぶらと回ってみたりしましたが、他にも物理やコンピュータなどさまざまな展示があって相当に面白かったです。……が、その一方で思ってしまったのは、いったい日本の教育ってなんなんだろう;、ということ。や、実は私は大学時代に物理の塾講師をやっていたのですが、例えばここに展示されているような、きちんとした霧箱を一度も見たことがなかったのですよ;。理論をきちんと理解した上でこうしたものを見ると、なるほどとめちゃめちゃ納得するし非常に知的好奇心を触発されるのですが、振り返ってみて、果たして小学生の頃にこんなものを見て何が楽しいのか本当にわかるのか? という点。情報の与え方には順序ややり方があるわけで、振り返って考えてみると、結構、大人のエゴじゃないか? と思えるような情報の与え方が割と多かったような気もします。……で、だいたいそういう教科って嫌いになって苦手になるんだよなー、みたいな;。教育って、本人の興味や知的好奇心などを喚起し、いかに自主性を促すのかが重要だと思うのですが、そのことを改めて感じさせてくれました。

まあ小難しい話は抜きにしても、普通に面白い博物館です。入場料も国立というだけあって \600 とかなりリーズナブル。真面目に見たら一日は軽くかかりそうで、今回は時間がなかったこともあり、奥さんとはまた何かの機会に来てじっくり見たいねー、という話をしていたり。興味がある方はぜひぜひ^^。

さてさて、3 月頭ですが、上野の東京国立博物館で実施していたこちらの特別展に行ってきたり。

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中国 4 世紀の頃に活躍した王羲之という人の書の展示会。私は全く知りませんでしたが、この王羲之という人、従来の書法を飛躍的に高めて芸術とした人なんだだそうで、その人の足跡を追うという展示会。非常に面白かったのは、実は王羲之本人の書は残っていないという点。なんでも唐の時代の皇帝がこの人の書が大好きだったそうで、全国に散在する王羲之の書を収集したうえで宮中に秘蔵、そしてなんと自分のお墓に一緒に埋葬させたのだとか;。このため原典は残っていないのですが、この皇帝は王羲之の書の精巧な複製を作らせており、そうしたものが現代に生き残っている次第。面白いのは、その複製が代を重ねるつど、劣化コピーになっていくわけですが、時代背景に合わせた字体に徐々に変わったり、時代背景に即した文字に変わっていったりしているところ。よくまあこれだけ解析・分析しているものだなぁと感心してしまいましたが、こういう形の展示会を見るのは初めてだったので新鮮でした。

それにしてもびっくりしたのはお客さんの数。書道展示なんて地味なのでろくに人も来ていないだろう、とタカをくくっていたら、入場規制がかかるほどの大混雑;。累計の入場者数は 10 万人を超えているらしく、おかげで展示一つ見るのにもえらい苦労しましたが、たまにはこんな展示を見に行くのも面白いものですねぇ。

さてさて、今年もついに年の瀬。例年、大みそかは一年の振り返りエントリを書いているのですが、今年はバタバタと忙しくて blog も滞り気味、加えて今年はあんまりすごいトピックもないぞ><、というわけで書くネタに苦慮することに;。うーん、どうしようかなー、と思ったので、先日、会社で出た話をひとつ取り上げてみようかと思います。

先日、会社の 4 つぐらい年下の同僚と話をしていたのですが、彼いわく、「自分ってホントに子供だなぁと思うんですよねぇ」との談。もともととてつもなく優秀な人材で、技術力も非常に高く、大きなプロジェクトでも重責を担うことが多いのですが、その一方でメンタル的に弱い部分もあり、ちょっと打たれ弱かったりする。はたから見ていると、自分に対する過小評価が甚だしくて、いやもっと自信持ってていいのにと思ったりもするのですが、彼曰くは「自分に対する過小評価が、努力や向上心につながっている部分もある」との話。ああ確かにそれはそうだろうなぁ、と思って話をしていたのですが、そんな中で出てきたのが、「この歳になってもまるで大人になった気がしない」、「自分の親が自分ぐらいの歳の頃にはもっとしっかりしていた気がする」という話。

ちなみにこの彼、かなり若いころに結婚して子供も産んでいるため、子供もすでに割と大きくなっている。Facebook なんかを見ていても、会社ではなかなか見えない、子供を大切にする暖かい父親像も見えるし、自分と比べてぜんぜん立派だよなぁと思ったりもするのですが、でも彼が言うことも、自分の実感としてよくわかるのですよね。というのも、父親が今の自分ぐらいの歳のときには自分は中学生ぐらいの計算なわけで;;、今の自分に中学生の子供がいる、なんていう像がまったく想像できないワナ;。その頃の父親像や母親像を思い返してみても、いや自分、全然ダメだよなぁ、と思ったりするのですよね。

や、もちろん昔の記憶なので美化されている部分もあるだろうし;、自分の親だって迷いながら大人になったんだろうし、これだけエンタメが豊富で晩婚化が進む今の時代背景では、「子供な大人」が増えるのも当然だろうと思ったりもする。けれどもふと冷静になったときに、はたして「大人」と「子供」を分け隔てるものはなんだろう? とも思うのですよね。もちろん法的には 20 歳で大人、結婚したら大人、子供を産んだら大人、仕事で一人で稼いで食えるようになったら大人、なんていう即物的な考え方もありますが、20 歳を超えてなくても大人な人はいるし、結婚してなくても子供を産んでなくても大人な人はいる。仕事してなくたって専業主婦だって大人な人など山ほどいる。いわゆる精神的な面での「大人」の分水嶺はなんだろう? と思ったりするのですよね。

もちろんそんなの正解のある話じゃないのですが、よく言われるのが、自分の行動に責任を取れるかどうか、だったり、自分の中に内部規範を持っているかどうか(他人に言われることなく自分でモラルを保てるか?)、だったりする。や、どちらも納得感のある回答で、後者なんかは実際、言われないと気づけない人とか、他人に見られていないととたんに行動が甘くなる人とかは、確かに子供だよなぁ、と思ったりする。けれどもそれだけで大人か? というと、それもちょっと自分的に違和感があるのですよね。うーん、じゃなんだろうか? とつらつら考えていたときに気づいたのが、生き方や考え方の根幹にあるもの。生き方の主軸が、「受け取る」ことではなく、「与える」ことにある人が、「大人」なんじゃないかな? と思ったりするのです。

これは最近、子供を産んで親になった人たちと話していてよく感じることだったりするのですが、そういう人たちって、基本的に生活の主軸が「子供」にある。そりゃもちろん子供がかわいいというのもあるでしょうけれども、要するに、「人生の主人公」が、「自分」から「他人」にシフトしているのですよね。自分の人生よりも、他人の人生の方が大事になる。よく「無償の愛」なんていうふうにも言われますが、もちろん赤の他人に対して無償の愛を振りまくなんてのは無理な話なので;、完全に無償かどうかというと疑問もあるでしょうけれども;、でも物事の考え方や主軸がどこにあるのか、ということが大切。例えばどんなにお金があっても、消費(=お金を出すことで「自分が」対価を得ること)が中心にある人は、やっぱりどこか子供なのだろうと思うし、逆にお金をみんなが喜ぶことのために惜しげもなく使える人は、やっぱりすごいなぁと思ったりする。もちろんそれは結果的に見返りを産んでいるかもしれないけれども、見返りを期待することなく、そうしたことが基本動作としてできる人は、やっぱり大人なのだよなぁと思ったりするのですよね。

いくら仕事ができてお金を稼げたとしても、そういう精神的なところが成長しないと結局は人生が充実しないだろう、と思ったりするのですが(← いうほど仕事ができるかというツッコミはなしで;;)、そういう観点で考えてみると、前述の同僚なんかは十二分に「大人」。それに比べると自分はまだまだだよなぁ、と思ったり。気づいてみれば自分ももう結構な歳で、来年でついに 40 歳。うっかりすると人生の折り返し地点を過ぎちゃっている可能性もあるわけで;、いやいやこれでいいのか自分? と思ったりすることもしばしばだったりします。40 歳は不惑の歳、というわけですが、中身を見れば惑ってばかり。早く惑わないように頑張らないとなーと思いつつ、来年もめいいっぱい頑張っていきたいと思っています。

最近はすっかりまったり blog になっちゃいましたが;、今年一年間、お付き合いいただきましてありがとうございました^^。みなさまどうぞよいお年をお迎えください。

さて、2011 年もいよいよ大詰め。毎年、大みそかは一年の振り返りエントリにしているので、今年もやっぱりそうしようと思うわけなんですが、今年は……どっちかというと、プライベートよりもお仕事の方で激動な一年でした;。ええ、とにかく大きかったのが管理職へのポジションチェンジでした;;。

なんかこう書くとよく「昇格おめでとうございます!」とか言われるわけですが、残念ながら給料は下がるわ残業時間は伸びるわと、踏んだり蹴ったりというのが実態だったり;。自分の会社は必ずしも管理職の方がえらいというわけではない上に、私自身、良くも悪くも現場の第一線で暴れていた人間だっただけに、必ずしもよいとは言えないことだったんですよねぇ;。それだけに、おいおいホントに私をマネージャにするのかよ!という驚きの思いと、年齢的についに順番が回ってきたかなぁという諦観の思いとがないまぜになっていたのは実際のところ。まあ、いくら現場の第一線でやっているとはいえ、この年になってマネージャ経験が一度もないというのも問題といえば問題だし、前向きに捉えれば自分からマネージャになりたいと言い出すことは決してなかったわけで、そういう意味では良い経験と言えるかなぁとは思ったり。

マネージャを半年間やってみて思ったことは、まあ概ね想像通りの職種だな、ということ。いろいろなスタイルのマネージャがいるし、業界や職種によっても違うので一概にどれがよいとは言えないのですが、少なくとも周りを見ていて思うのは、自分の職場の場合には仕事が雑なタイプの人はマネージャ向きではない、ということ。例えば、権力志向性の強い S タイプの人であっても、別の側面では緻密な数値分析に基づいて物事を考えられたり、あるいはメンバーに対する細やかなメンタルケアができる人は割とうまくマネージャができているのですが、ろくにものも考えずにいいからやれ!と言っちゃうタイプの人は、ホントに害悪としか言いようがない;。そういう意味では、どちらかというと M タイプの人が向いている職種だなぁと思ってしまうのですが、いずれにしても、管理することよりも、いかにメンバーをプロデュースするか? すなわちプロデューサ的な動き方ができることが大切だなぁと思ったり。

この辺はまさに事前の想像通りだったのですが、一方で、マネージャとして致命的に足りていない部分もある、と思い知ったところもありました。それは、売上に対する執念や執着心。自分の場合、現場経験が長いこともあってか、現場感覚的なところから「どうやってもこれぐらいにしかならないだろう」とすぐ予測を立ててしまう。それゆえに、数割程度のストレッチゴールであれば頑張ろう、という気になるのですが、数倍とかの数値を見せられた瞬間に、「んなの無理だろ;;」と一蹴してしまう。けれども、他の人を見ていると、無謀ともいえるそういうゴールに対して執念を見せる瞬間がたまにあるのですよね。しかもそのやり方はかなり危ういこともあって、それはリーガル的にヤバいだろ;;、と止めに入ったケースもあるぐらい;。もちろん自分としてはそういうやり方は絶対に避けたいわけですが、とはいえ、危ない橋を渡るぐらいの執念や執着心がありますか?と問われると、それはやっぱり欠けているよなぁと思ってしまったり。こういうのは、本当に追い詰められたときの力の差として出てくるだけに、自分の弱さを痛感するところでもありました。

一方で、マネージャやリーダが陥りやすい問題の本質も見えてきた気がしています。それは一言で言えば、バランス感覚。数値ベースでのマネジメントに傾倒しすぎると、現場の実態や現場感覚を簡単に失ってしまって、現実的ではない数値を目標値としてしまったり、実行不可能な戦略を作ってしまったりしやすくなるのだなぁ、と。どんな判断ひとつをとっても、対極とのバランスを考えておかないと、なかなか長続きしないと思うのですよね。例えば、売上拡大と研究投資のバランス、大型案件と中小案件への人員配置バランス、案件のタイプやサイズのミックスやそのバランス。時として、一時的に売上や利益率を重視しなければならないことはあって、そうしたときにこうしたバランスを一時的に崩すことはあるのですが、それを長期的に続けると、必ずどこかにムリが来る。けれども、こうした当たり前のことができないのは、そもそもバランシングが管理されていないからなんだなぁと実感したんですよね。

このバランスを管理するためには、① 何と何をバランスさせるのか?を明確にし、② その適性バランス比率を数値的に作り上げ、③  さらにその数値をトラッキングする必要がある、のですが、まず、①②については一流の現場感覚でしか出てこない。加えて、③に関しては多くの場合、売上をトラッキングする仕組みは持っていても、①をトラッキングするためのものにはなっていない。それゆえに、これらの仕組みを自力で作り上げないとダメなのですよね;。過去を振り返ると、確かにこういうことができていなくて、結構大きな課題だよなぁと思ったり。

また、こうしたバランスを恒久的に崩す必要があるとしたら、それは戦略ややり方そのものを見直す必要がある。やり方は同じでバランスだけ崩す(例えば今までと同じやり方で、売上だけを拡大させようとする)と、短期的には大丈夫でも中長期的にはどんどん組織が痛んでくる。組織が腐りきる前に、先に戦略ややり方を作り直さないとダメなんだなぁと思ったりします。

# 他にも採用活動とかいろいろ書きたいけど、また後日;。ネタはあるんですが;。

つらつらと書きましたが、仮に現場に戻るにしても、今のままの現場には戻りたくないよなぁと思ったり。せめて中長期的な地ならしをしてから戻りたいものですが、その一方で、なるほど確かに一流の現場感覚を持っていないと、中間管理職というのは務まらないものなのだなぁと思う今日この頃。早く現場に戻りたいなぁとは思いつつも、ある程度のことはやって、自分なりにいろんなものを得てから戻るようにしたいものです。

とまあ、仕事に関して得るものが大きかったのか、失うものが大きかったのかはよく分からない一年でしたが;、とはいえ、気付きが多い一年間ではありました。来年は果たしてどうなるのか、いろいろ見当がつかないところですが、出来る限りは頑張りたいものです^^。

なにはともあれ、みなさま今年もありがとうございました! 良い年をお迎えくださいませ^^。

ふうー;、というわけで blog の更新をサボって早半月;。っつーかこの忙しさはなんなんだとツッコまずにはいられない毎日で、朝は普通にラッシュ時間帯におでかけだわ、帰宅はふつーに夜中だわ、電車の中でラノベ読む暇すらろくに取れなくてフラストレーション溜まりまくり;。しかもそれが一時的な現象ならともかくも、しばらくは解消される見通しが立たないから困ったもの。……あれ? なんか自分、サラリーマンっぽくね??とか思ったり;;。

なんでこんなに忙しいのかと言えば、自分の能力不足もさることながら、組織としてのコントロールが事実上崩壊しているから;。うちの組織のサイズでは真っ当に受けることはできないような超大型案件に手を出したために、組織のトップはそのプロジェクトに直接参加せざるを得ず、トップが行うべき業務がカスケードされていろんなところに降り注いできているという状況;。客観的に見ると、売上に目が眩んで身の丈を超えた仕事を受けてしまって崩壊しかかっている、という状況なわけですが;、それでもなんとか走り続けているというのが恐ろしいところ;;。一瞬、「いやこのままいけるんじゃね?;」と、どう考えてもナチュラルハイな人間が思考停止に陥ったような発想が出てきてしまうあたり、自分的にも末期症状だなぁと思ってしまうわけですが;、まあこれはどっかで本格的にコケるかそれに近い状況に陥らない限りは絶対に止まらない暴走列車だな、と思わずにはいられなかったり。

しかしそんなカオスな状況を見ていて改めて思ったことは、現場感覚とセールス感覚の両方を持って、モラルある仕事の進め方をしない限り、組織というのは崩壊するものなのだな、と。現場的な主張を強固に押し通せば、仕事はいろんなところで安全サイドに倒し気味になって、売上がいかなくなる。かといってセールス主導で物事を押し通して無理を貫けば、現場は百姓よろしくコキ使われ、後にはペンペン草も生えない荒野が残されることになる。概して急成長した組織で綻びが出やすいのはおそらくそんなところがあるわけで、自律した厳しい心を持って、身の丈に合った成長、すなわち地に足の着いた成長をしていくことが、中長期的な成長のためには必要なんだよなぁ、と思ったり。(この点、株式会社ってのはやっぱり不利ですねー;。決算で仕事が歪みやすくなるものなのだなぁ、と;。)

……とまあ泣き言ばっかり言ってても仕方がないので頑張る訳ですが;、とはいえこの先にどんなビジョンを描けばいいのかホントにわからんなー;、というのも正直なところ。ある程度はがむしゃらに頑張ってみないとビジョンなんて出てこないものだろう、とも思うわけですが、ビジョンなきまま突っ走っても、自分はもちろんメンバーも遅かれ早かれついてこなくなるだろう、とも思ったり;。トップのコントローラを失っているので、あちらこちらから次々と仕事が振ってきて現場は大混乱な状況なわけですが;、こんなときだからこそ、本当に重要なものを見失わずに冷静に対処していく必要があるというもの。手近な仕事はそこそこでこなし、中長期的に成長していく本質的な戦略のためにもっと力を注がねば、と思ったりする次第です。うむむ、かんばらねばー;。

というわけで最近はぜんぜんエントリ書けてないですが;、今日は少し時間が取れたのでばらばらっといくつかエントリを書いてみたり。ぼちぼちアップしますよー^^。

ふう~、ようやく一週間終了~><。実は年貢の納め時で、しばらく前から管理職になっちゃったりしていたのですが;、おかげで日々の業務が激増するワナ;。激増といっても質的な激増ならともかく、実態は雑務が増えているという状態で、残業時間は増えるわ睡眠時間は減るわでえらいことになっていたり。や、blog ネタは着々と溜めているわけですが、blog を書いてる時間がないせいで一週間とか放置することになっちゃったりしています。

まあロールチェンジで一時的に負荷が高くなるのは仕方ないにしても、給料が減るのは微妙に勘弁してくれ状態;。給料減らすんなら専門職のままにしといてくれよと言いたくなるわけですが、会う人会う人から「まちばりさんが管理職になるなんてびっくりしました」と言われるのは激しくどーよ?状態;。組織改編の影響もあって、誰しもが無傷ではいられない状態ではあるのですが、管理職のコマが足りなくて、こいつしか充てる人間がいない、という後ろ向きなアサインであるだけに、いろんな意味で頭を抱えてしまうワナ。確かに自分の会社は比較的現場の専門職は豊富にいるものの、管理職の人材が致命的に欠けているのは事実ではあるものの、だからって私をチョイスするのはラストチョイスだろー;、と思っていたり。そりゃまあ誰しもが驚きの人事ととらえても当然だろうなぁと思ったり。

それにしても、管理職をやり始めてからまだまだ日は浅いものの、よくもまあ次々と問題が起こるものだなぁというのが率直な感想。なにしろ事実上、管理職まるごと総とっかえみたいな人事だったおかげで、管理職といっても素人同然みたいな人ばっかりなわけで、次から次へと降ってくる課題を打ち返しているだけで手一杯;。事務処理能力はそれなりに高いつもりでいた自分でも、こりゃ正直捌き切れないわー;、と思ったり。先日聞いたところ、うちの会社でも新人マネージャにいきなり 20 人も部下持たせるなんてありえない、とツッコミが入りましたが;、まあこればっかりは慣れていくしかないですね;。問題は日々の業務の忙しさをどれだけ圧縮して、戦略的な手をどれだけ打っていけるのか、なわけで、そういう状態までどれだけ早く持っていけるかがカギだろうなぁと思っていたりします。

そんなわけで、しばらくは blog も更新が滞りがちになるかと思いますが;、そのかわりになるべく質の高い(?)ネタだけを厳選して書こうかなぁと思っていたり。まあ以前からマイペースな blog ではありますが、これからものんびりペースな blog で行こうかなー、と思ったりしています。そんなわけで、まったりお付き合いいただければ幸いです^^。

さくっと amazon で魔法使いの夜を予約;。や、机の上を整理していたら、昨年予約した Sofmap の予約票を見つけたのですが、正直この分だと発売が普通に来年になるんじゃないかと推測。Key の Rewrite は amazon で注文しておいたのですが、忘れたころにぽろっと来たので、魔法使いの夜についても amazon でぽちり;。Sofmap の予約票、予約金はもったいないけどまあもういいや、ということで捨ててしまったり。

しかしふと、ゲーム業界での発売日詐称ってアリなんだったっけ?と思ってしまったり;。特に美少女ゲーム業界では発売日は伸びるのが当たり前だとみんな思ってるわけですが、とはいえ 1 年以上も発売が延期されるとなると話は別。TYPE-MOON なんかを見ていると、これはもうオフィシャル発表にあるような、プロジェクト管理の甘さとかそういうレベルでの延期じゃなくて、完全に確信犯のレベルなわけですが;、冷静に考えてみると、一般の普通の上場企業で発売日詐称とかしようものなら普通に考えてアウト。これが許されるのは TYPE-MOON みたいな会社だから、なんでしょうが、それにしたってそれに振り回される小売店はたまったもんじゃないだろうなー、とは思ったりします。

業界としての未成熟さもあるでしょうが、マイノリティメディアの中のトップ企業だからこそ許される所業だよなぁ、と思ったり;。素晴らしい作品を作るからこそ許されているのでしょうが、とはいえ TYPE-MOON みたいなトップ企業でもこういうことをしないと食っていけない……んでしょうねぇ;。

夏のこたつさんから紹介された、twitter まとめサイトを読んでいて、「うーん;」と唸ってしまった話をひとつ。

陸上の為末大さんと乙武洋匡さんが、なでしこJAPAN優勝に関してTwitterで会話したときのログのまとめ。簡単に言えば、「栄光や感動は誰かの犠牲によって成立している」「その労力や時間を支える仕組みを作らないと文化は長続きしない」というもの。感動を食い物にする、モラルの感じられないようなメディアに関しては確かに褒められたものではない、と思いますし、総論としては概ね異論がないところなのですが、「うーん」と唸ってしまったのは、乙武さんの次の意見(及び関連するいくつかの発言)。

いくら可能性のある選手でも、「家族や友人とゆっくり過ごす時間とお金、そのすべてを犠牲にできるか」という問題に直面し、その競技を断念することだってあるだろう。社会がその下支えとなり、競技に専念できる環境を整備することができれば、そうした選手も競技を続けられる。

後ろの方にあるコメントの中にも似たような発言(ベーシックインカムなど)が見られるのですが、うーん、それはちょっと違うんじゃなかろうか?と思ってしまったり。私は、すべてを犠牲にするからこそ辿り着ける境地があるのだと思うのですよね。

実際、こうした「私生活を犠牲にしている」話はスポーツに限らず、あらゆる文化産業に共通してみられる話ですが、成功した人は必ずしも恵まれた環境で育ってきていないことも多い。いやー、漫画家さんとかなんてホントひどいもんです;。駆け出しの頃はコンビニのアルバイトしながらマンガ描いてました、なんて人はホントにザラにいるんですよね;。ビジネスの世界でも、成功している人は、たとえお金に不自由していなかったとしても、何かしらの犠牲(主に私生活に関する犠牲)を払っていることが多い。

成功することが確約されていないとやろうとしない若者は多いけど、それは甘えというもの。確約された成功なんてものはない、と思うのです。失敗するかもしれないけれども、リスクを取って背水の陣の中でなお何かを犠牲にして頑張る。様々な犠牲を払っても突き進みたいと思うその信念こそが、心の強さを育む。ぬくぬくと温室の中で育てられて、世界と戦える強靭な精神が養われるのか? 私は世界はそんなに甘いもんじゃない、と思うのです。

もちろん、様々な犠牲を払って得られた対価(例えば私生活を犠牲にして得られた栄光とか、私生活を犠牲にして得られたお金とか)が、犠牲に対して見合ったものだったかどうか? は当然問題になるでしょう。けれども、そのリスクを取るかどうかは個人としての人生の選択の話。結果がどうなるかは分からないけれども、それでも何かを犠牲にして頑張る。頑張ったからといって対価が得られるとは限らないけれども、頑張らなければ対価は得られない。そういう状況でも頑張れますか? という問題なのではないかと思うのです。

先日、社内でトップの賞を受賞した友人と話していたときに、お酒の席で「すべてを犠牲にして仕事に打ち込まなきゃこんな賞は取れない、生半可にやってるヤツにこんな賞が取れるわけがない」という話を聞きましたが、私は概ねこの発言に同意、なんですよね;。彼は私より年上ですが、結婚もせずに世界中を飛び回って大型案件をクローズさせる凄腕営業マン。見ていて「あの生活は私には無理;」と正直思いますし、酒の席とはいえ、こういうことを言えてしまう心の強さは私にはないよなぁ、と思ってしまう。もちろん、世の中を見回せば、私生活も地位もお金も栄光も持ってるような人もいるでしょうが;、概していえばそれは少数派。私生活を犠牲にして頑張っている人には、最後には努力に見合った何かしらの対価があって欲しいとは願いますが、おそらくはその対価すらも求めずに頑張りつづけられる一握りの人たちにこそ、そうした対価が与えられるのかもしれませんね。

ふう~、というわけでなんだかバタバタする毎日が続いているわけですが;、最近は組織改革の一環で、なぜか私が新しい組織図を描いているワナ;。なんでマネージャでもない一兵卒に過ぎない自分が組織構造なんか検討しているんだとツッコミが入りそうですが;、まあその経緯はさておくと、現在やってるのは新しい組織の構造設計。簡単に言うと、トップから末端までの間にどういう役職を置いて、それぞれの役職にどういう Role & Responsibility (役割責任)を持たせるか? を考える作業。もっと簡単に言うと、こんな絵を描く作業です。

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普通こんな絵は、別にどっかから持ってくれば済みそうな話なんですが、自分の所属している組織はちょっと特殊なプロフェッショナル集団ということもあって、普通の組織図が役に立たない;。また、過去数年やってきたモデルが正直破綻していたというところがあって、新しい方向性が求められているのですが、予想はしていたけどこれがまあなかなかに難しい;。全社的に定められているルール(例えばマネージャの人数制限だとか権限や責務など)がまずあり、そのルールの中で、どれだけ組織のトップが目指す方向性をうまく実現できるのか? となると、これがまあ激しく難しいわけです;。

今回の場合、どちらかというと、現在そもそもうまく組織が回っていないので、発生している問題をいかにうまく解消するのか? というところに主眼を置けばよい。なので、まずはいろんな人からアイディアを聞き取ってみたわけですが、知らなかったことやら自分では気付けなかったこともかなり多くて激しく勉強に。改めて、「聞く」ってことは大切だなぁと思ったわけですが、なかなか面白かったのは、人によって組織の作り方に対する考え方がものすごくバラついている、という点。人を配置する『箱』(及びその人が何をするのか)を決めることが重要で、人選については二の次に考える人もいれば、人選こそが重要で、『箱』を決めたところで実際には現場での臨機応変な対応の方がよほど重要だと主張する人もいる。

現実的には、「箱」を作ることも「人」を選ぶことも重要なのですが、私自身が考える最も重要なポイントは、「評価指標」の作り方、だと思ったりします。評価指標(KPI, Key Performance Indicator)とは、簡単に言えば、その人なり組織なりのパフォーマンスを測定するための数値指標のことで、分かりやすく言えば「売上」だったり「利益率」だったりする。しかし問題なのは、単一指標に偏った KPI の取り方は、不正行為やモラルハザードにつながりやすいという点。ビジネスである以上、売上や利益率というのは達成しなければならない重要な指標なのですが、一方でそれのみを指標にしてしまうと、短期的な売上ばかりを気にするようになり、品質や従業員満足度の軽視、ひいては持続的・長期的な成長のための基盤を損なってしまう。

そうならないようにするためには、何らかの逆指標を加える必要がある。簡単に言えば、モラルハザードに陥ったときに逆方向に動く指標を加えておくのですよね。分かりやすいのが、上記に書いた品質や従業員満足度の指標。こうしたものは、無理に売上や利益を追求したときに逆方向に振れやすい指標なので、こうしたものを加えておくことで、健全な組織成長を目指せる、という仕組み。

……とはいえ実際にはこんなに単純な話ではなくて、例えば単に従業員満足度を指標に加えれば解決するかというと、そうでもない。というのは、うっかりするとマネージャが部下に対して従業員満足度として高スコアを付けるように指示を出しちゃったりすることもあるから;。なので、どんな逆指標を使うのか、また逆指標をどうやって測定するのかというのは、実はものすごく大きな問題。いろいろ頭を悩ませているわけですが、なかなか突破口が見えなかったりするところでもあります。

MBA とかを取っていれば、それなりにいろいろと基礎知識やら常識やらが身に付いているんでしょうが、現場での野生のカンを基に組織設計をしていくのは激しくムチャ振りもいいところだろう、と言いたくなるところもあったり;。まあでも、私が作るのはあくまで素案レベルまでなわけだし、たまにこういうことをいろいろ考えてみるのも、頭脳トレーニングになって悪くないですね。

最近、うちの会社というか組織で人員整理が走っているのですが、その内容がかなり強烈なもので、恐ろしい人数の人間が整理対象に。過去、いわゆるリストラはそれなりに見てきてはいたつもりでしたが、さすがに一時期にここまで一気に進めるという話は初めてで、いやはや果たしてどうなるんだろう、と思わずにはいられなかったり。いったん縮小均衡を図って、本当の意味で価値のある人員に一度選別をかけ、そこから真に強い組織を目指す……というのが理屈上の骨子なのでしょうが、ここまでドラスティックにやられると、さすがに本気度を感じてしまうところ。自分はそうそう切られるような状況には追い込まれないようにしていますが、いやはやそれでも自分も改めて気が引き締まる思いになったり。

一般に、リストラということになると、基本的には成果が出ていない人を対象に首を切る……と思われがちですが、必ずしもそうとは限らない。さほどパフォーマンスに問題がない人であっても、これからの伸びが期待できない人、言われたことしかできない人などは、場合によっては切られる対象になりうる。特にリストラ計画は、経営層から何人切れ、という形で落ちてくることも多いため、現場の細かい都合なんておかまいなし。残された椅子に誰を残したいか? という視点で考えた場合には、当然のことながら、現在のパフォーマンスは当然のこと、将来的な成果への期待も加味されて残留メンバーが決定されるわけで、単に今まで言われるとおり従順に働いてきました、というだけでは十分なアピールにはならないのですよね。

けれども、人間というのは概して気付くのが遅いもの。以前、リストラで人員整理の対象になった人から、後日談としてこんな話を聞いたことが。それなりに頑張って組織に貢献してきたし、成果も出している(つもり)だったにもかかわらず、ある日、突如リストラを言い渡されて目の前が真っ暗に。当然、リストラなので、管理側もある程度無理矢理理由をくっつけて退職を迫るわけですが、そんな後付けの理由や内容を切り出されたら納得できるわけがない。傍目からはパフォーマンスが出てない人であっても、本人としては従順に頑張っていたつもりだったはずで、だいたいの場合、大いに揉める……のですよね;。「今さらそんなこと言うな」「言われればちゃんとやっていたのに」、と。

しかしそもそも論で言うと、そんなことを言われてしまう時点でもう終わっている、のですよね。怒られて反省して、これからちゃんとやるようにします、なんていう言い訳が通用するのは子供の世界だけなわけで、大人の世界や仕事の世界では、そもそもそんなことを言われることがないように、先回りしてどんどん結果を出していかなければならない。……というより、そういうふうに自律的に自分で考えて行動し、自分で結果を作り出していける人こそがビジネスの世界では重宝される。だから、「言われていればちゃんとやっていたのに」というのは、もはや終わっているとしか言いようがない反論……なのですよね;。

# なんか書いていて連想したのが、熟年離婚の三行半(みくだりはん)。夫の側からすると、
# 「今まで自分はこれだけやってきたのに」「いったい何が悪かったんだ」「もっと前から
# ちゃんと言ってくれてたらやっていたのに」……うわわ、全部同じ言い訳だよ、と;;;。

結局のところ重要なのは、常に自ら気付こうと努力し、そしてそれを行動に反映させていくこと。確かに人間って言われないとなかなか気付けないものではありますが、それでもなお気付く努力をすること。アンテナをたくさん張り、日頃から自分の価値を吟味し、自分を変えていくことが大切。熟年離婚もリストラも、降りかかってきたときにはすでに結論は動かせない状態になっている。そうならないためには、いかに日頃から自分に対して(客観的に)厳しくいることができるのか、が問われるのだと思います。

ふと振り返って考えてみると、ここ数年は組織がヌルかったせいで私の心もちょっと緩み気味。今の組織でパフォーマンスを出せていても、もっと高みを目指していかないとな;、と改めて思う今日この頃。ホント、明日は我が身と思って頑張らないと、ですねぇ;;。

というわけでようやくゆかりんライブのエントリを書くことができたのですが;、いきなり blog の更新がちょろっと止まった原因は、仕事のとあるプロジェクトにお手伝いで参加していたため。「4~5 時間ぐらい手助けしてもらえないか?」という話だったので、まあそれぐらいならいいですよ、と入ったはいいものの、10 時間かかっても終わらないワナ。おいおいどこのだまし討ちですか状態だったわけですが;、いやー、これはダメでしょ、状態に;。

このプロジェクト、一週間ぐらいであるシステムを作ってカットオーバさせよう、という超短期プロジェクト。まあ最近はこういう無茶な引き合いも少しずつ増えてきてはいるのですが、実際これが全くムチャな話かというとそういうわけでもない。特に最近は技術の向上もあって、確かにさくっとモノづくりが出来るようになってはきた……のですが、それは別に、いいかげんにやってもモノが作れるということではない。適切な体制、適切な仕様があってこそ可能になるのが超短期開発……なのですが、そももそ仕様も管理されていなければ、管理する担当者も曖昧。チームとしての体制もそれぞれの責任分担が曖昧で、実態としてプロジェクト管理がほとんど機能していないような状況;。これじゃまったくダメでしょう、という;。

IT 関係の業界では、破綻して崩壊に向かっているプロジェクトのことをデスマーチプロジェクトと呼んでおり、ゆかりんもかの有名な「ゆかりんマーチ」という迷曲を発表していたりするわけですが;、なんで最初にきちんと体制組まないのかなと小一時間;。以前にこのマネージャと一緒に一週間ほどでシステムを作り上げたことがあり、そのときは実質、そうした体制づくりや下支えを自分の方でやったのですが、今回は最初から入っていなかったおかげでボロボロのプロジェクトに投入されることに。すでに進んでいるので今さらリカバリも効かず……や、もうこの人とは二度とお仕事では組みたくないです;、という感じだったりします;。

まあ、こういうことはたまに起こるものですが、重ね重ね思うのは、こうしたデスマーチプロジェクトの多くは人災だということ。決して難しくはないプロジェクトであっても、適切なタイミングで適切なリソースのアサインを行い、適切な体制を組む、という当たり前のことをやらないと、簡単に崩壊するものなんだよなぁと改めて思いました。超短期プロジェクトのような冷静さを失いやすいプロジェクトであるからこそ、改めて基本に忠実であることが重要なんでしょうねぇ。

つらつらとネットを巡回していたら、こんな話題が。

これ、絶対可憐チルドレンを執筆されている椎名氏が、Twitter で「声優が他の仕事すると気にくわない人って、自分が視野を広げるとか予想もしなかった新しい経験をして成長したことがなくて、それでカテゴリーにこだわるんじゃね?」とつぶやいて炎上した、という話。どうもこの話で出てきた声優さんというのが平野 綾さんのこと(テレビのバラエティ番組への出演の件)だったらしく、あ゛ーそりゃ炎上して当然だわな、と思ったりしなくもなかったり。客観的に見ると、Twitter での椎名氏のつぶやきにも一理あるし、それに反論されている人の発言の多くにも一理ある(すべてとは言わないけれど)ので、まあそれはそれでいいんですが、私がちょっと考え込んでしまったのは上の blog のエントリ。

blog での主張は、端的に言えば、「発言する人はモラルを持つべきであり、モラルのない発言や行動に対しては毅然と向かうべき」というもの。それは単体で見れば実に理にかなっている……のですが、問題なのは、それを椎名さんが語ってよいのかどうか?、というポイント。簡単に言えば、椎名氏のような「粋な大将」(サービス提供側)が、客(サービス享受側)に対して「粋な客」であることを求めてよいのか? という点なのですよね(=粋な大将は、粋ではない客に対して、粋であることを求めたりはしないんじゃない? 笑って流すんじゃない? ということ)。

この発言を、ある意味、漫画家(=サービス提供側)の人間として行わず、それとは切り離された、第三者的な「オトナな視点」から行えば特に問題はないでしょうが、現実的にはそうはいかない。というのも、発言は本来的にその本人の立場と切り離して考えることはできないから、なのですよね。少なくともオフィシャル blog で書いている以上、本人の立場と切り離して発言を読み取ることはできない。

……多くの人は、もし同じ状況に立たされたら、叩かれることを嫌ったり怖がったりして、椎名氏のこの blog のエントリのようなことを書くことはしないでしょう。上述したように「粋な大将」として、適当に笑って流して、その代わりにこっそりと「あのお客さん二度と予約を取らないし、今後は出入りお断り」とするのでしょう……というか、それが普通。直接的に、粋ではないお客さんに、粋であること、すなわち成長することを求めたりはしない

けれども椎名氏がすごいなぁと思うのは、多分そうしたもろもろのことを分かった上で、それでも敢えてその発言を公に行ってしまう強さ、だと思うのですよ。それは、ある種の「見守るものとしての強さ」「後人を育てようとする者としての強さ」「親としての強さ」のようなもの。自分は粋であり続けようと努力する、だから君も粋であってくれ、という、相手を律するとともに自分も律していくという力強さを感じるのですよね。

こういう力強さはある種のリーダシップ力にも通じるものだと思うのですが、いやー、普通の人はなかなかそうは言えないよな、と。実際、リアルでそういう心の強さを持った人に出会う機会はなかなかないものですが、その心の在り方は私も見習いたいなぁと思ってしまったり。や、なかなか難しいと思うんですけどね。

この blog、割と結構好き勝手に書いていることもあって、ダメな作品には平然と「ダメ」って書いちゃうわけなのですが;、そんなスタンスを取っていると必ずと言っていいほど出てくるのが「そこまで書かなくてもいいじゃないか、もっと気楽に楽しんだらいいじゃないか」という意見。その多くは匿名投稿として送られてくるのですが、星の数ほど blog が出来たり Twitter に移行しているせいか、最近はあんまり見かけていなかったのですよね。が、数日前に久しぶりにそんな書き込みがあったので、たまにはこれに関して書いてみてもいいかな、と思ったり。や、割と大切な話なんじゃないかなー、と思ったりするので。

■ 「プロ」に対するリスペクト

作品に対して辛辣な意見を述べる人に対してよく言われる意見に、「あなたに同じものが作れるのか? 作れないんだったらそんな偉そうなこと言うな」というものがあります。が、そもそもこれは的外れ。なぜなら、それはクリエイターをプロと認めていない(今回のケースで言えば、麻枝氏をプロと認めていない)ことになるからです。

プロとアマの境界線は明確なものではありませんが、その線引きのひとつに、「その仕事を生業とし、お金を稼いでいるか否か?」というものがあります。要するに、趣味なのか、お仕事なのか、というもの。私も(業界こそ違いますが)普段は一人のプロとして、お客様に接してお金を頂いているわけですが、そうした仕事をする中で、「自分の言っていることややっていることを理解できない・楽しめないユーザ(お客様)が悪い」と考えることはありえないことです。というか、万が一にもそんなことを考える人(=自分の能力不足・努力不足を棚に上げて相手に責任転嫁するような人)はプロ失格、あるいは三流としか言いようがない。

プロフェッショナルというのは、相手に理解してもらう、楽しんでもらうために腐心するものであり、そしてそれと同時に、自分のモラルやメッセージ、考えをいかに伝えていくのかにも腐心するもの。自分を押し出すだけでもダメだし、かといって相手に迎合するだけでもダメ。そこをいかに両立し、バランスするか? そこにプロフェッショナルとしての腕がある。

出された料理に対して、「あなたに同じ料理が作れるのか?」「文句を言うんじゃなくてもっと気楽に楽しんだらいいじゃないか?」というのは、一見正しそうに見えますが、それは一方で、クリエイターたる料理人を貶めている発言である、ということを肝に銘じるべきだと思います。(余談ですが、そういう意味でクリエイターの名前を間違えて書くのはそもそも論外です;。)

■ 批判と非難の違い、意見を発信する側としてのモラル

さて、上に書いた考え方は、一見すると「ユーザ側はお金を払っているんだから、何を言ってもいい」という、ある種のクレーマー的な発想に見えるかもしれません。が、もちろんそういうわけではないと思います。やはり、ユーザ側(お客様側)にも、一定の節度やモラルは当然求められるべきだと思います。

ではユーザ側のモラルや節度とは何か? それは、批判をするなら筋の通った批判をすること。よく、「批判」と「非難」は違う、と言われますが、これがまさにそれ。自分の立ち位置や考え方を示し、ひとつの意見として批判を述べること。もちろん、それが作者の意図と合致しているかどうか……はどこまで行っても分からないものですが、例えば面白くなかったというのであれば、なぜ面白くなかったのか、つまらなかったのか、そう感じた理由や論拠を出来る限り分かりやすく書くことが必要なのだと思います。

私の場合、blog やインプレを書くにあたって気を付けていることは、少なくとも作品をしっかり理解した上で意見を述べるようにすること。それは、褒めるにしてもそうでないにしても、です。前者の例としては CLANNADCROSS†CHANNELSense Off智代アフター ~It's a Wonderful Life~Ever 17、後者の例としては Steins;GateRemember 11、あるいは取り上げられているリトルバスターズ!などを思い出しますが、それは私にとってのクリエイターに対するリスペクトの一環であると同時に、クリエイターとの真剣勝負でもあるのです。

■ 作品に合わせた "TPO" 的な批評

……とまあ、これだけあれこれ書いてきても、おそらくまだ変わらず「そんなにぶつぶつ言わなくてもいいじゃん、もっと気楽に楽しもうよ、いや楽しめないなんてかわいそうに;」といった意見を述べる方はいると思います。いやまあ、気持ちは分からなくもない部分もあるのですが、一方で、いつでもどこでも融和路線的な、日和見的な意見を振りかざして議論をやり過ごそうとするのは、時として必要とされる真剣さが足りないんじゃないか?と思うことがあるのです。

というのも、私だっていつでもどこでも真剣勝負ばっかりしているわけじゃない。PSP 版オレイモをプレイしている時には、頭の中をからっぽにして黒猫と全力でいちゃいちゃして楽しむに決まっている。それはある種の TPO。あらゆる作品が真面目に批評されるべき、というわけではない。けれども、メッセージ性の強い作品であればそれに合わせた楽しみ方や批評が必要だと思うし、作品の特性によらずにいつでも「気楽に楽しもうよ」というのは違うんじゃないか、と。

作品が目指す方向のベクトルに合わせた楽しみ方や批評というものは確かにあり、それに合わせることが大切、だと思うのです。

いつでも殺伐とした批評をしているのも困るけれども、だからといって、いつでもニコニコしながら日和見的な意見ばかり述べているのも違う。時として、真剣になって本気で作品に向き合わなければ、得られない理解や気持ち、感想もあると思うのです。

だから、こういうインプレに関して、「そんなぐだぐだ言わずに、もっと気楽に楽しめばいいじゃないか」という意見を投げてくる人に問いかけてみたい。「あなたは本気で真剣に、人生のすべてを賭けるぐらいの気持ちで何かの作品と向き合ったことがありますか?」と。そして、そうしたものを通して得られる「何か」が、どんなものなのかを知っていますか? と。時として、そういう取り組みが必要になることもあると思うのです。

もちろん、それは「私の」作品の楽しみ方であって、それは別に唯一正しいものでもないし、人によっては「どんな作品も気楽に楽しみたい」という方もいるでしょう。それはそれで別に OK。けれども、「楽しまなくちゃダメでしょう、楽しめないならプレイすべきじゃないでしょう」とまでなると、それはさすがに違うだろう、と思うのですよね。

■ まあでも結局のところは。

……と、あれこれ書いてきたわけなのですが、まあ今回の話、実はもっと単純な話で、この書き込みも含めて、

「自分は面白かった、楽しかった。けれどもなんか Web 見てたら自分と違う意見や批判があった。気に入らん;。」

という、ファン同士のぶつかり合いでしかないんじゃないかと思います;。や、まあ実際そういう気持ちは私にもあって、自分が楽しめた & お気に入りの作品に関して、的外れな非難をしているページとか見かけると、「ちょ;;、それは違うだろう;;」と言いたくなる気持ちとか、潰したくなる気持ちはやはりあるというもの(苦笑)。まあ、人間ですから、そういうのはやっぱりあると思うのです。や、そんなに度量がある人間でもないので;。

とはいえ、「作品に対しての感想は人それぞれ」。当たり前ですが違うのですから、楽しめない人がいたという事実も認めなくちゃいけない。自分と違う意見の人についても、認められる度量の広さを持ちたいものです、はい;;;。難しいんですけどね;。

今日はこちらの書評をひとつ~。

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ええっと、新幹線の科学。以前に紹介した、「ボーイング 777 機長まるごと体験」と同じシリーズの一冊なのですが、いやー、これは非常に面白い。主に東海道新幹線に導入されている N700 系を中心として、新幹線のハイテク装置の数々に迫っていく、というものなのですが、単に乗っているだけでは分からないハイテク技術の数々が紐解かれているのでかなり面白い一冊になっています。

この本の面白いのは、新幹線の車体などの解説に留まらず、その周辺のテーマまで含めて扱っているところ。駆動系、電力供給、車体、客室、運転、線路、安全、旅客サービスなど、ほぼ新幹線にかかわる基礎知識を網羅的に一冊にまとめてあって、これを読めば新幹線マニアになれる、といわんがばかりの一冊。びっくりしたのは、新幹線は在来線と異なるメカニズムで構成されているところが極めて多いということで、ほとんど独自の専用設計の車体と線路が使われているのですね。まあ考えてみれば当たり前と言えば当たり前なのですが、これだけの開発費用とメンテナンス費用が投入できるのは、特に東海道新幹線がドル箱路線だから、なのでしょうね。

普段から新幹線を使う人は、おそらく興味深く記事の数々を読めるはずなのでかなりおすすめ。ぜひ読んでみてください。

というわけで今日は先日の Web 拍手へのコメントから~。えっと、1/10 のエントリへの Web 拍手なわけですが。

> 御回答ありがとうございました。もしよろしければ、まちばりあかねさんをロールモデルに
> させて頂きたいのですが、何か行動の上で具体的に気をつけられている点、あるいは
> 根本の人生哲学がございましたら教えて頂けないでしょうか。プライバシー上の問題が
> ある場合は、ご回答をお控え下さい。

……なんか話がえらい大げさになっているような気がするのは気のせいですか隊長;;。いやそんなに大層な話じゃなかったと思うんですが、状態;;。というかそもそもロールモデルっていったいなんですか、タベラレマスカ? 状態ですよ、ええ;。

まあでも敢えてマジレスしてみると、人生哲学なんていう大層なものは持ち合わせていない、というのが本音なところ、でしょうか;。や、この Web 拍手を入れてくださった方がどんな回答を期待されていたのかは知る由もないのですが、人間ってそうそう無矛盾でいられるものではない、と思うのですよ。あるところではカッコいいことを言いながらも、あるところではめちゃめちゃダサい行動をしている、というのがごく普通の人間の姿。数学の理論のように、たった一つの哲学や理念から、すべての考えが派生し、その行動が規定されているような人なんて普通いないでしょ、と思うわけです。

そのときそのときで、自分にとって都合のいい理屈や理念を持ち出して自己肯定しながら生きていく。……というか、そうしなければ生きていけない。それが人間の姿なんじゃないかと思うのです。

私は普段考えていることとか、自分自身の考え方をその場その場でこの blog に書き連ねて約 5 年になるのですが、この blog (とゲームのインプレ)を手繰れば、だいたい今の自分の考え方のほとんどがまとめられています。でも、それが人生哲学なんていう大それたものかと言えば、正直そんな立派なものじゃないと思いますし、これから先も、大小いろんな形で自分の考え方は変わっていくのだろうと思います。謙虚に考え、自らの非を認める勇気を持ち、自分を変えていく努力を続けていくことで、ちょっとでもよい自分を目指せればいいなー、ぐらいに思っています。はい。

にしても、こうやって自分のそのときそのときの考え方を blog にまとめていくことはなかなかよいものですね。相当な時間を費やしてこの blog を書いてはいますが、それ相応の見返りはあるものだなぁと改めて思う次第、だったりします。

さてさて、今日は先日いただいた Web 拍手のコメントの内容からひとつ~。

> 結局この時代に生きるひとりの人間としての幸せを重視すると、身近な人との交流に帰結するということですかね。。。極めるほど凡庸になるというこですかね。

や、こちらのコメント、年末の大みそかエントリの話に頂いた Web 拍手なのですが、ちょっと反応したくなったのでつらつらと書いてみるテスト。や、実のところ、凡庸に生きることこそが真に大変で難しいことなんじゃないか、と私は思うのですよ。

近代的な文明が生まれて数千年、人は幸せを求めて止まずに生きてきたと思います。その間、科学技術は進歩するし文明も発展するし、この世の暮らしも昔に比べて驚くほど豊かにはなった……とは思います。けれども、それは人間そのものが生命体として進化したということではないのですよね。例えばこれは私の妹の受け売りですが、科学技術や医学が進歩した今となっては、30 歳を超えた出産は全く珍しくない。けれども、生物学的に見たらやっぱり 30 歳を超えた出産は高齢出産に違いないのですよね。同じように、人間の寿命は確かに延びたけれども、誰だって死ぬという基本原則の部分には未だ変わりはない。社会生活が豊かになったとしても、生命体としての根源の部分に関しては、昔とそれほど変わっていないというのが実態ではないか、と思うのです。

その一方で、私は幸い(?)にして割と大きな企業に勤めているおかげで、いわゆる「仕事の世界」における頂点に近いところも垣間見たりすることがあります。そんなときにふと思ってしまうのが、「自分は絶対にあの高みには到達できない」という現実と、「あの高みに到達したとして自分は幸せになれるのか」という冷静な自己分析。や、ともすればこれらは「やる気のない人間の逃げ」のようにも見えるでしょうが、そうした面を抜きにして、本音ベースで冷静にそう思ってしまう自分がいる、のですよね。

分かりにくければ、こんなシチュエーションを考えてみるとよいかもしれません。例えば、トレッキングで山登りをしたときに感じる清々しさは間違いなくある。けれども、ではエベレストの頂上に登り詰めたら果たして自分はどう思うだろうか、と。確かにエベレストに登頂すれば、登頂した人にしか味わえない『何か』を得られるのは間違いないでしょう。けれども、それは自分が目指すべき幸せのカタチなのか? という問題は、全く質の違う問いとして存在するわけです。

もちろん、もしかしたら今まで人類が見つけられなかった全く新しい『幸せのカタチ』が存在していて、すごい能力を持った人であればそれを発見することができるのかもしれません。けれども、正直言って自分ぐらいの能力でそんなものが見つけられるとはとても思えない。それができると思うのなら、それは人類の今までの集合知にタテをつくようなものではないかと;。や、さすがにそれは無理だと思うのですよ。

けれども、その一方で思うのは、今の時代、凡庸に生きることこそ本当は難しい、ということ。

凡庸に生きる……と書いた場合、どんな人生を想像します? ごく平凡に就職して、ごく平凡に恋愛して、ごく平凡に結婚して、ごく平凡に出産して、ごく平凡に会社勤めして、ごく平凡に子育てして、ごく平凡に老後を過ごす……こう書いてみればすぐに分かりますが、今の時代、どの一つ取っても恐ろしく難しいことばかり、ではないでしょうか? ましてやそれが幸せな就職、幸せな恋愛、幸せな結婚……などと修飾子がつけば、これはぞっとするほど大変なことだと思うのですよ。今の就職難なんかを見てみれば、もはやその入り口の段階で致命的に躓いているわけだし、結婚しない/できない若者が後を絶たない、なんてしょっちゅう言われる話。でもそれは、誰しもがそんな生活を望んでいるわけじゃなくて、今の時代、普通に生きてたら凡庸に生きることなんてできない、という話だと思うのですよ。

だからこそ、凡庸に生きたいと思うのであれば、並大抵ならぬ努力をしなくちゃいけないのではないかと思うのですよね。そして、努力で得られた力は、凡庸に幸せに生きるために注ぎ込む必要があるのではないか、と。私は、将来の夢が「歳を取ったときに、日本庭園の縁側で、奥さんと一緒にお茶をすすりながら『今日も平和だねぇ』とまったりすること」という人ですが(苦笑)、いやはやそんな余生を過ごすためにはどれだけの努力が必要なのか? 正直、今の努力ではとても無理なんじゃね??と思ってしまう部分があるのですよねぇ。

や、幸せのカタチなんて本質的なところは時代が変わってもそんなに大きくは変わらないはず。けれどもそれを掴むために必要なパワーや努力は、おそらく時代が変わればそれ相応に変わってくる。もちろん、今だけでなく昔の時代だって昔の時代なりの難しさと大変さがあったはずですが、今の時代、少なくともそれがラクになっているというわけではないはず。だからこそ、自分たちは頑張らなくちゃいけないんじゃないか……とまあ、そんなふうに思います。

というわけで今日はこちらの書評をひとつ~。

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ええっと、最近ベストセラーになっているらしい新書、「宇宙は何でできているのか」。副題として、「素粒子物理学で解く宇宙の謎」というタイトルがついているのですが、その名の通り、宇宙という壮大なテーマが、素粒子物理学という微細な粒子の物理学と関連している、という非常に興味深いテーマを扱っている一冊です。

私自身は一応これでも理系出身なので、この手の話は当然好きだしそこそこは知っているつもりだったのですが、びっくりしてしまったのはここ約 10 年ほどの研究の進展。著者の村山さんは素粒子物理学の第一線の研究者の方なのですが、ここ 10 年ほどで次々と明かされたり実証されつつある理論や研究内容を、本当にわかりやすく説明してくれています。確かに当時、私が学生の頃にそういえばそんな話があったよなぁ……と思う内容について驚くほど研究が進んでいたりして、思わず読みふけってしまうワナ。

しかも素晴らしいのは、この本、一切といっていいほど数式が出てこないのですよ。私は物理学と言えば数式で紐解かれる世界、というイメージを持っていたし、また私自身が塾でアルバイトをしていたときにはそういう教え方をしていたのですが、この本は数式を使わずに、その理論や数式が何を意味するのかを、極めて平易な日本語と例えで説明してくれている。そして驚くべきはその豊富な知識。次から次へと手を変え品を変えて説明される話の数々は、単に第一線の研究者としての力量だけではなく、語り手としての恐るべき力量を感じさせてくれると同時に、物理学の面白さをこれでもかというぐらいに見せつけてくれる。例えば標準理論というものがどういうものなのか、どんな意味があるのかということを、おおまかなところだけでも理解した気にさせてくれた本はこれが初めてで、いやー、もし私が学生時代にこれを聞いていたら研究の世界に残っていたのかも……と思ってしまうぐらいにエキサイティングな世界を見せてくれました。いやはや本当に素晴らしい。

それにしても、この本を読んでみて思ったのは、自分は物理学のことをこれっぽっちもわかってなかったんだなぁ、ということ。一応これでも塾のアルバイトで物理学を教えていた人間なのでそこそこはわかっているつもりだったのですが、この本を読んで思ったのは、やはり物理学も実験の世界なのだということ。や、高校や大学の最初の頃に学ぶ物理学は、基本的には理論と答えがかちっと固まっている世界で、物理=すでに完成された理論のもとに形作られる学問、というイメージを持っていたのですよね。ある意味、数学に近いものを感じていたのですが、宇宙物理学や素粒子物理学にはこれほどまでに分からないところがあり、そして新しい理論を構築していくことで世界を読み解こうとする夢のある学問なのだということを教えてくれます。逆に言うと、そういう物理学の魅力は塾の講義ではぜんぜん説明できてなかったなぁ……と思うところもあり(まあ受験用のテクニックとしての物理なのでそれはそれでアリ、とは思いますが;)、ちょっと申し訳なかったかな?と思うところもあります。

なにはともあれ、物理学の面白さをいろいろ教えてくれる一冊。特に学生の方にはおすすめなので、ぜひ興味がある方は読んでみてください。

さて、2010 年もいよいよ大詰め。例年、大みそかのエントリは一年間の振り返りの総括エントリにしているので、今年もつらつらと書いていこうかな、と思ったりするのですが、まあさすがに今年は結婚の話を外すことはできないよな~、と思ったり。

や、今年は 2 月に入籍、そして 11 月に結婚式をしたわけなのですが、改めてこの一年を振り返ってみると、結婚というものに関して想像しきれていなかったことが多かったなぁ……と思う部分が非常に多くありました。正確に言うと、結婚そのものに関することというよりも、結婚によって自分や周囲の物の見方がどう変わるのか、そしてそれによって自分のライフスタイルがどう変わっていくのか。頭の中で想像していたことと、現実的に日常に起こったことは随分と違っていたなぁ、という、ある種の実体験的な驚きを感じ続けた一年間でした。

例えばお仕事。今年は結婚式の準備に忙しかったこともあって(というかそれが一番大きな理由でしたが)、残業をほとんどしていない。特に、今まで半ば常態化していた土日出勤に関しては激減……というよりもゼロになったのですが、同僚からは「いやー、結婚してあのまちばりさんが残業しなくなったんですよ」とか言われる始末(苦笑)。昔の会社の先輩からは「ようやっと彼もそうなったのかー」と感慨深げに言われてしまったり。もっとも実態としてはそんなに残業時間は変わっていない(=単純にゲームやアニメのために休んでいたのが、結婚生活のために変わっただけに過ぎない)し、個人の売上成績的には過去最高レベルの水準を維持し続けているのですが、そんなふうに言われるのは、オンとオフがはっきりするようなライフスタイルに変わったこと、そして周りの目線が変わったことの証左だろう、と思ったりもします。

この、生活(ライフスタイル)の変質。今までの自分の世界は、どちらかというと、過去の自分の延長線や、仕事や趣味の世界での広がりや深掘りを追及していて、それはそれで心地よいものであったし、きっとこれからもそれを追及していくのでしょう。がしかし結婚を契機に変わったのは、家族や親族との関係。過去を振り返ってみて、ここまで両親といろいろ話したことはなかったように思うし、疎遠になっていた親族ともコミュニケーションを取る機会が自ずと増える。ああ、なるほど最近忘れていたけれども、確かにこういう世界もあったよなぁ、と思うのです。

今年、社内で会社の一番良い賞を取った友人と飲む機会がありました。彼は私の一つ上で、彼女は切れ目なくずっといるんだけれども、未だ結婚はしていないという友人。結婚したいと言いながらも仕事に没頭したいという理由でずっと仕事をし続けて、今年ついに賞を取ったのですが、その友人いわく、「中途半端に仕事してるヤツには賞は取れない」と。確かに私もこの賞は過去取ったことがあるのですが、昔と違って今は賞の難易度が全く変わってしまっていて、今ではとても取れる気がしない。そんな賞を取った彼には頭が下がる思いだし、確かに彼の言うとおり、突き詰めなければ見えない世界、たどり着けない世界があるとは思うのです。それはそれで正しいのだけれども、それを突き詰めてしまうが故に、見えなくなる世界もあるというのもまた真実、なのですよね。

仕事や趣味で何かを突き詰めていく世界というのは、私はやっぱり好きなのですが、けれども世界はそれだけじゃない。自分たちだけの、小さくて平凡な幸せを作っていくプロセス。言い換えれば、勝ち負けでは語ることのできない世界観で形作られる、家族や親族の世界を作り上げていくというプロセスは、分かっていたようで分かっていなかったなぁとここ最近痛感するところがあります。仕事や趣味といったオープンな世界と、家族や親族といったクローズドな世界。それは二律背反なものではなくて、自分の中で調和を持たせるべきもの。私の尊敬するある恩師は、これを称して WLH (Work Life Harmony)と呼んでいましたが、自分は今まで仕事をしてきてみて、仕事だけではない、そういう「いろんなことを知る」人生を生きたいなと思っていたわけで、(別にそのために結婚したわけでもなんでもないのですが)期せずして人生の新しいステージに移ったのだろうな、と思ったりもします。

オタクとは、「なる」ものではなく「生まれる」もの。オタクとして生まれてきた自分は、これからも仕事もゲームもアニメもずーっと凝り続けるのでしょうがw、けれどもそれだけではない価値観というものも育んでいきたいし、学んでいきたいものだと思います。来年はどんな年になるのか、まだまだ想像がつきませんけれども、でも今年以上に、もっともっと頑張って楽しんでいきたいものです、はい^^。

なにはともあれ、今年は特に停止気味の blog にお付き合いいただいて、皆様ありがとうございました! よいお年をお迎えください^^。

というわけで、イルミネーションを見た後は二人でのんびり NHK の特番を見ていたのですが、その見ていた番組がこちらの「日本の、これから - 就職難をぶっ飛ばせ!」。内容はタイトルの通り、リーマンショック以降、学生に押し寄せる就職難のひどい有様を捉えてディスカッションをしていく、というもの……なのですが、タイトルから予想される通り、なかなかに前向きになりにくい議論が続いていました;。

もともと「考えてもらう」ことがテーマのような番組なので、結論が出ないのは当然のことではあるし、そもそも深いテーマを扱っているので一朝一夕に答えが出るものではない……のですが、見ていて思ったのは、機会均等の話と、絶対数としての雇用不足の話とを、同一線上で捉えちゃいけないだろう、ということ。就職問題に関しては、この二つの問題が同時に重なり合いながら生じるものですが、この二つは分離して考えなくちゃいけないテーマ、だと思うのですよね。

機会均等、という観点で言えば、たまたま生まれた年が不景気だったがゆえに不幸を見る、という状況は極力是正されるべきだし、人材の流動化をもっと進めたり職業訓練を積極的に行うことで、既得権を極力切り崩して幅広く平等性を保つべきでしょう。けれども、現在の日本の場合、内需の縮小、引いては物理的な雇用の少なさという問題があって、そこが解決されていかないと、少ない椅子を取り合う椅子取りゲームになることに変わりはない、とも思うのですよね。

ただ、何人かが指摘していた、学生と企業のミスマッチという問題は確かに存在していて、やたらと大企業ばかりを志向する風潮は致命的な問題だろう、と思います。中小企業でキャリアを積む、ということが日本だと難しいためだとは思うのですが、こうしたところはもっと是正されていくべきだろうなぁ、と思ったりします。

……と書きながら、私自身が最大の問題じゃないかと思っているのは、日本人によくみられる、既得権益にすがりつこうとするメンタリティ、なのですよね;。や、これは日本だけではないのかもしれませんが、例えばなぜ大企業を志向するのか? それは大企業に入ることで安定な生活を得たいから……と言いますが、実態としては大企業に入って終身雇用のサイクルに入ってしまえば、路頭に迷う心配がないから、というのが本音なところなんじゃないか? と思ってしまうのですよね。私も仕事でいろんなお客さんと接している中で、大企業を蝕む病理をたくさん見てきていますが、その中でも致命的なのは、会社にすがりつこうとする人がかなり多いということ。会社を踏み台にして次のステップに進む、といった発想が少なく、しがみつく対象として会社を見ている節がある。そうした発想はある種の「甘え」であり、自分の足で立っている(自立している)とは全く言えないだろうし、それは大の大人として情けないだろう、と私は思うのですが、こういう考え方をする人って意外にレアな気がする……のですよね;。残念ながら;。

メンタリティの問題で話を片付けたくはないものの、もっと一人一人が自分の人生というものに責任を持つという意識を持ってもらえたらなぁ……と思ってしまったり。や、それはなかなかに難しいことだとは思うのですが;、なんかこういうテレビを見ていて改めてそんなことを思ってしまいました。世界(=外的要因、例えば就職難など)を変えてもらうことは難しくても、自分(=内的要因、例えば自分の行動など)を変えることはそれに比べて圧倒的にラクなはず、ですからねぇ。

さてさて、では前回に引き続いて、アナログイラスト原稿を元にした、デジタル版下原稿の作り方を解説したいと思います。

■ アナログイラスト原稿のデジタル版下化の問題点

今回、同人誌を作るときに問題だったのは、描き起こしていただいたイラストを拡大縮小して原稿に貼り込む必要があった(=原稿が完全に原寸大ではなかった)、という点でした。アナログイラスト(トーン貼りなどを使った実物原稿)をデジタル版下化する場合、実はこの拡大縮小の処理というのはなかなかの難敵になります。多くの Web サイトでは、アナログイラスト原稿はモアレるから拡大縮小するな、というのが鉄則のように書かれているのですが、うまく処理することによって、かなりの部分の問題を解決することができます。

ここでは、以下の作業を行う場合について、適切な処理方法を解説したいと思います。

  • アナログイラスト原稿を、スキャナで読み取る。
  • その原稿を、適宜、拡大縮小してサイズ調整する。
  • それを 600dpi 版下原稿に貼り込む。

最終的に、600dpi 版下原稿に貼り込む際には、2 値化された原稿として貼り込みます。が、そこまでの処理プロセスに結構クセがあるので、順次解説していきます。お急ぎの方のために、結論だけ先に取り出して書いておきますと、以下の通りです。キーポイントは、適切な 2 値化処理と、グレースケール状態での拡大縮小です。

  • アナログイラスト原稿を、1200dpi 程度のグレースケール原稿として読み取る。
  • Photoshop で読み取り、「50% を基準に 2 値に分ける」を行い、2 値化する。
  • 2 値化した後、再びグレースケール原稿に戻す
  • グレースケールの状態で、拡大・縮小を行い、版下へ貼り込むサイズに調整する。
  • サイズを合わせたら、今度は「誤差拡散法(ディザ)」で 2 値化し、これを版下に貼り込む。

以下に、なぜこの方法でうまくいくのか、また詳細な作業手順を解説します。

■ 2 値化処理について

アナログイラスト原稿を処理する際、一つ目のキーポイントになるのは 2 値化処理の正しい使い分けです。例えば、Photoshop Elements の場合には、グレースケール原稿を 2 値化(完全な白/黒のみにする)する際、以下の 3 つが選択できますが、これをうまく使い分けることが、モアレのない原稿を作る際にきわめて重要になります。

  • ① 50% を基準に 2 値に分ける
  • ② パターンディザ
  • ③ 誤差拡散法 (ディザ)

このうち、実際に利用するのは、①と③の 2 つのみです。②のパターンディザは、アナログイラスト原稿で使っているスクリーントーン(アミ)と干渉を起こしてモアレを発生させてしまうため、使ってはいけません

では、以下に作業手順を示していきます。

■ アナログイラスト原稿の取り込みと基本処理について

まず最初にやるべきことは、アナログイラスト原稿をスキャナで取り込むことです。スキャナ取り込みは割と普通のスキャナで OK です。私の場合には、イラストをお願いした作家さんが遠方に住んでいるため、先方が持っている PM-A950 という EPSON の複合型プリンタのスキャナで取り込んだデータをネットで送ってもらっていました。読み取り時の設定は、1200dpi のグレースケール原稿。後からの拡大縮小を行うために高めの解像度で取り込みを行います(取り込み解像度は、スキャナの光学解像度そのもの、またはその 2 倍か 4 倍になるように設定するとよいでしょう)。取り込んだ原稿はこんな感じになります。

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ファイルサイズは割と巨大になるので要注意。B5 原稿を 1200dpi、16bit グレースケールで取り込むと約 200MB になります(16bit で取り込んでもらったのですが、実際には 8bit グレースケールで十分かも;)。最近のパソコンならこの程度のデータ量はどうということはないと思いますが、ネットでファイルをやりとりしようと思うと結構大きなサイズになるので注意してください。

# なお、この状態で画面上でモアレ(縞模様)が出ていても気にする必要はありません。
# モアレが出る理由は、スクリーントーンのアミの周期と、モニタ及びスキャナの周期が
# 完全に一致していないからです。しかし、このモアレは以降の処理で見えなくなります
# ので、現時点では気にしなくて OK です。

さて、マンガ原稿をこのグレースケール状態で印刷所に出してはいけません。モアレる上に線がかすれ、さらに白いところも白くなりません。なぜかというと、グレースケールのデータは、印刷所で自動的にアミカケ化されるため。業者でのアミカケの周期と、アナログ原稿のスクリーントーンのアミ点が干渉を起こし、モアレになってしまう上に、線の周辺でのアミカケ処理により、ラインがかすれた感じになってしまいます。具体的には、こんな感じの印刷になってしまいます。(※ レーザープリンタで印刷したものをデジカメで撮影しましたが、業者に出しても似たような感じになるはず。)

P1050780のコピー

これを避けるためには、パソコン内で(モアレないようにうまく) 2 値化処理を行い、これを印刷所に出す必要があります

さて、パソコンに2取り込んだデータ、これだとよく分からないと思いますので、ちょっと拡大してみるとこんな感じです。紙そのもののシワや、貼り込んだトーンによる灰色、修正液なども少し見えます。

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まずはこれを 2 値化(50% を基準に 2 値に分ける)して、マンガ原稿の状態にします。ただし、現状の状態のまま行うと、トーンのアミなどが落ちてしまうので、適当にコントラスト補正をしてから、50% 基準 2 値化を行います。

[まずコントラスト補正を行う]

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[次に 50% 2 値化処理を行う]

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このようにすることで、まずは高解像度(この例だと 1200dpi 相当)のデジタル版下原稿ができます。

# ちなみに、グレースケールで取り込むのではなく、最初からスキャナで 2 値取り込みをする方法
# でも OK ですが、この場合は、スキャナ側で 2 値化の閾値をうまく決めていただく必要があります。
# 私の場合は、先方の作家さんにこの作業をお願いするのもちょっと申し訳なかったので、まず
# グレースケールで原稿を取り込んでいただき、手元で 2 値化処理を上記のように行っていました。

なお、2 値化の前後のどちらの画像も、画面上で見ると、どちらもモアレが出ているうえに、2 値化処理前のグレースケール状態の方が綺麗に見えます(下図の左側が 2 値化後、右側が 2 値化前)。ですが、ここは見た目を信用してはいけません

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印刷してみると、グレースケールの方は先ほど示したようにモアレが出ますが、2 値化したものはモアレがほとんど出ません。モノクロ 2 値化したものを実際に紙に印刷してみたものを下図に示します(モノクロ 2 値化したものをレーザープリンタで印刷し、デジカメで撮影)。モアレも線のかすれもなく、綺麗に印刷できていることがわかると思います。

P1050782

印刷でモアレが出ないのは、この状態の原稿データが、モノクロ 2 値、解像度 1200dpi になっているためです。このデータを、解像度 600dpi のレーザープリンタで打ち出しても、解像度が(整数倍で)一致しているためにモアレが出ない、ということになります。

もし原稿を原寸のままで 1200dpi 版下に貼り込めばよいのであれば、このまま貼り込んで終わり、です。ですが、私の場合にはこれをサイズ調整したうえで、600dpi 版下に貼り込む必要がありました。このやり方について以下に解説します。

■ サイズ調整処理について

まず当たり前のことですが、版下へイラスト原稿を貼り込むためのサイズ調整をする際、原稿を拡大することは御法度です。原稿を拡大すれば、その分、原稿が粗く見えることになりますので、モアレが起こる起こらない以前の話になってしまいます。これを避けるためにも、原稿サイズは縮小するのが基本です。(スキャナで取り込む際に、敢えて 1200dpi という高解像度で取り込んでいるのはこれが理由です。)

また、基本調整が済んだ原稿のサイズ調整をするための縮小をする場合、モノクロ 2 値のまま縮小を行ってはいけません。これを行うと、縮小時に、整数倍拡大・縮小ではないことによるモアレが発生します。このため、まずグレースケールに変換してから縮小を行います。(なお、変換時には回転が禁忌、と書かれているサイトもありますが、以下の方法であれば回転などを行っても大丈夫です。) それと、当たり前のことですが、縮小・回転処理は一発で行います。繰り返せば繰り返すほどドットが崩れていき、汚くなってしまいます。

グレースケール変換して、版下にサイズ調整して貼り込んだのが下図です。

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この状態で原稿を拡大してみると、下図のように、線やスクリーントーンがグレースケール化されて滑らかに縮小されていることがわかります。

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が、この状態のままで印刷してしまうと、先と同様に、スクリーントーンのモアレや線のかすれが発生してしまいます。そこで、このグレースケール化された原稿を 2 値化するのですが、このときは 50% 2 値化ではなく、誤差拡散(ディザ)による 2 値化を行います。

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このディザ 2 値化を行った原稿をモニタ上で見ると、かなり不安になるほどひどい印象を受けます(左が縮小処理でグレースケール化された原稿、右がそれをディザ 2 値化した原稿)。

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ところがこれを印刷すると、モアレのモの字もないような、ものすごくきれいな印刷になります。(上の右側のデータを、レーザープリンタで印刷し、デジカメで撮影したものです。印刷所で印刷しても似たような感じになります。)

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なぜ画面上で見るとぐちゃぐちゃなのに印刷すると綺麗に出るのか? というと、それは 600dpi の解像度のギザギザは人間の目では視認できないからです。モアレのような干渉縞は、周期が長い(印刷したときに数 mm 程度の波のようなうねりとして印刷される)ので人間の目で見てすぐにわかるのですが、600dpi の細かいギザギザは人間の目には分からない。なので、印刷すると綺麗に見える、というわけです。

■ 注意事項

前のエントリにも書きましたが、モアレが発生しているかどうかは、ディスプレイ上では確認できず、またカラーインクジェットプリンタの印刷でも確認できません。例えば、上に書いた「モアレが発生していない綺麗な原稿」を、EPSON PM-A950 で印刷すると、下図のようになります。バッチリとモアレが発生していることがわかると思います。

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これは、モノクロ原稿の解像度が 600dpi であるにもかかわらず、解像度 720dpi のカラーインクジェットプリンタで印刷したためです。解像度の異なるあらゆるものの組み合わせでモアレが発生しうる、ということを常に頭に置いておく必要があります。

このため、アナログイラスト原稿を元にしてデジタル版下データを作成する場合には、以下の点に注意して作業を進める必要があります。

  • 印刷所が受け付けているデータの解像度に合わせて版下データを作る。
    デジタル入稿が可能な多くの印刷所は、通常、600dpi or 1200dpi のモノクロデジタル版下データを受け入れています。(というかそれ以外の数字を見たことがないです) まず、この解像度に合わせた版下データを作るのが大原則です。
  • モニタ上での見た目を信用しない。
    ここまで示してきたサンプルからもわかるように、モニタ上でモアレが出ているかどうかは全くアテになりません。なぜなら、モニタは通常 96dpi or 72dpi 相当で出力されているため、600dpi 相当の原稿は(原稿自体にモアレがあろうとなかろうと)どうやってもモアレるからです。
  • 版下チェック用にレーザープリンタを購入する。
    多くの家庭用レーザープリンタは、印刷所と同じく 600dpi の解像度でデータを印刷します。このため、版下データにモアレがあるか否かは、レーザープリンタで印刷してみると一発でわかります。購入してもたかだか 1 万円程度なので、これは必需品と思ったほうがよいでしょう。(通常のモノクロ印刷をする場合には、インクジェットよりランニングコストも安いので、そういう意味でもオススメです。)

慣れてくれば、文字・写真・イラストが混在したページを作成することもできます。版下は下図のようになります。

原稿例のコピーのコピー

■ まとめ

というわけで、アナログイラスト原稿を元にした、モアレのないデジタル版下原稿の作り方は、ざっと以下のようになるかと思います。

  • アナログイラスト原稿を、1200dpi 程度のグレースケール原稿として読み取る。
  • Photoshop で読み取り、「50% を基準に 2 値に分ける」を行い、2 値化する。
  • 2 値化した後、再びグレースケール原稿に戻す。(が、使われているのは黒と白のみ)
  • グレースケールの状態で、拡大・縮小を行い、版下へ貼り込むサイズに調整する。
  • サイズを合わせたら、今度は「誤差拡散法(ディザ)」で 2 値化し、これを版下に貼り込み。

なお、原稿データの作成にあたっては、2ch の同人ノウハウ板のまとめサイト「本文データ入稿¢(∀`){モノクロ) まとめ」などを参考にさせていただきました。ありがとうございました & この blog エントリが、同人関係の有志のみなさんのお役に立てれば幸いです。

さてさて、現在の同人誌はなにげにデータでの入稿が可能。Photoshop などで作成した原稿をそのままオンラインでデータとして入稿してしまうことが可能になっているのですが、困ってしまったのがモノクロ原稿の正しい作り方。これ、うまく作らないと写真が綺麗に印刷されなかったり、あるいはモアレ(縞模様)が出てしまったりするのですが、いろんな Web を見ていると、結構わかったようでわからない説明が多いのですよ;。なので、自分的備忘録も兼ねて、ここにモノクロ原稿の作り方をまとめておきたいと思います。

まず、モノクロ原稿を正しく作成するための大前提である、モアレから説明していきたいと思います。

■ モアレとは何か

モアレとは、異なる周期のパターンが干渉しあうことによって発生する縞模様のこと。物理を専攻した方であれば、異なる周波数の音が重なり合うと、長い周期のうなりが発生することを習ったことがあると思いますが、原理的にはあれと同じ。

モアレはいくつかのパターンで発生しますが、最も単純なものは、周期間隔の異なるトーンの重ね合わせで発生します。こちらのページを見て頂くとわかると思いますが、二つのトーンを重ね貼りしたいくつかのケースで、一定の濃さにならず、ヘンな波模様が発生している様子が見て取れると思います。これがモアレです。

このモアレの厄介さは、周期間隔(解像度)の異なるあらゆるものの組み合わせで発生しうることです。代表的なものを挙げると……

  • 光学解像度 600dpi のスキャナでモノクロ 2 値で読み取ったマンガ原稿を、解像度 720dpi のプリンタで印刷。
  • 光学解像度 600dpi のスキャナでモノクロ 2 値で読み取ったマンガ原稿を、パソコンのモニタで表示。(パソコンのモニタの解像度がいくつかはモニタに依存しますが、通常は確か 72dpi 相当として計算されたはずなのでずれてしまう)
  • 光学解像度 600dpi のスキャナでグレースケールで読み取ったマンガ原稿を、パソコン上でパターンディザ 2 値変換した場合。(パターンディザ 2 値変換は、元のマンガ原稿のトーンのアミの間隔とズレているためにモアレが発生する。)

そしてもうひとつ、このモアレの厄介なところは、パソコンのディスプレイ上での目視などでは、モアレの有無を判定できないことがある、というところです。例えば、下図の拡大図を見ると、打点にはモアレがないように見えます。

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この画像をモニタで縮小してみると、以下のようにモアレ(縞模様)が発生しているように見えます。

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ところが、さらにこれを

  • 600dpi レーザープリンタで印刷すると、モアレは発生しません。
  • 720dpi カラーインクジェットプリンタで印刷すると、モアレが発生します。

このような状況に陥るのは、以下のような理由によります。

  • 多くのスキャナは、光学解像度 600dpi (またはその倍数)になっている。
  • 多くのパソコン(例えば Windows)は、モニタへの出力画像を作る際に、モニタの解像度を 96dpi と仮定して出力している(Mac だと 72dpi )。
  • 多くのレーザープリンタは、出力解像度が 600dpi (またはその倍数)になっている。
  • 多くのカラーインクジェットプリンタは、出力解像度が 720dpi (またはその倍数)になっている。

そして簡単に言うと、これらの中から解像度の異なるものを組み合わせると、モアレが発生するのです。このため、モアレの有無というものはモニタの目視では判断できないことが多く、デジタル原稿データを正しく扱わないとうまく処理することができない、という問題があります。本エントリでは、どのようにすればモアレのないデジタル原稿データが作れるのか、について解説します。

■ モノクロ原稿作成の必需品 - レーザープリンタ

デジタルデータ入稿でモアレを回避するためにまず重要なことは、最終的な出力解像度に合わせた原稿を作ること。多くの印刷所では、600dpi または 1200dpi のモノクロ原稿を受け付けているため、Photoshop などで原稿を作る場合には、まずその原稿の解像度を必ず 600dpi または 1200dpi に設定する必要があります。(どちらにすべきかは、印刷所の指定に合わせます。) 通常は、600dpi あればまずまず綺麗な原稿が作れると思います。

そしてもうひとつ重要なこと、それはレーザープリンタを購入することです。

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前述したとおり、モアレはパソコンのモニタ上で確認することができず、カラーインクジェットプリンタで印刷して確認することもできません。結局、印刷所のプリンタと同じ解像度を持つプリンタで確認するしかないのですが、多くの家庭用レーザープリンタは 600dpi なので、これを使えば版下の印刷チェックが出来る仕組み。別に高価なレーザープリンタは不要なので、出力解像度が 600dpi(またはその倍数)になっている安いものを選んで購入してしまいましょう。安いものなら 1 万円前後で購入できます。

# ちなみに、カラーインクジェットをお持ちの方でも、レーザープリンタは一台持っていて損はないです。
# 水でにじむことがない、綺麗なモノクロ印刷が可能、印刷ランニングコストが圧倒的に安い、といった
# 特徴があります。(おそらく A4 1 枚の印刷で数円程度なので、インクジェットの 1/10 ぐらいかな?と)

■ 3 つのコンテンツタイプ

さて、いよいよ原稿作りの方法の話に入るのですが、実際のデジタル原稿を作成する際には、作成するコンテンツを以下の 3 つに分類して考える必要があります。

  • 文字原稿(セリフなどのふつうの文字)
  • 写真原稿(いわゆる写真)
  • アナログイラスト原稿(トーンなどを使って作られた、実物のマンガ原稿)

# 実際にはあともうひとつ、デジタルイラスト原稿(コミスタとかを使って作ったマンガ原稿)が
# ありますが、これの処理方法については私は使わなかったのと、いろんなページにたくさん
# 解説がありますので、ここでは割愛したいと思います。

なぜこの 3 つに分類するのかというと、この 3 つは版下作成時の処理方法がそれぞれ異なるからです。一番処理が厄介なのが、アナログイラスト原稿。これは処理方法を誤ると簡単にモアレます。処理方法を確立してしまえば簡単にデジタル原稿化できますので、これらについて順次説明していきます。

# まあしかし、結婚式の同人誌ってこういう観点からすると説明にうってつけですね。
# なにしろ、マンガの原稿もあれば、いわゆる思い出写真も含まれてますのでw。

■ 文字原稿の処理方法

まずは最も簡単な文字原稿の処理から。これは、アンチエイリアスをかけずに文字を入力するだけで OK です。

[◎ アンチエイリアスなし] (100% 拡大図)

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[× アンチエイリアスあり] (100% 拡大図)

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モニタ上で見た場合、アンチエイリアスありの方が、ギザギザが目立たなくなるため、一見きれいに見えることがあります。が、印刷した場合にはアンチエイリアスなしの方が綺麗になります。それは、印刷所のプリンタやレーザープリンタは、グレースケールを直接表現することができないため、これを白黒の打点に変換してしまうからです。印刷所で印刷すると、以下のような形で印刷されます。(※ わかりやすくするために、効果をちょっと極端につけています。実際にはここまでにはなりません。)

[× アンチエイリアスあり] (100% 拡大図、印刷所で印刷すると...)

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モアレは発生しないものの、文字のエッジが立たないため、綺麗な文字として印刷されません。このため、文字原稿部分については、グレースケールを使わないモノクロ 2 値で作成する(=アンチエイリアスをせずに作成する)ことになります。

■ 写真原稿の処理方法

一方、写真原稿は、何も処理せずに、グレースケールのまま原稿に貼り込みますPhotoshop などの機能を使って、アミカケ処理をしてはいけません

[◎ グレースケールのまま貼り付け]

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[× Photoshop でアミカケ処理をして貼り付け]

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これはもう原稿を見ていただければ一目瞭然だと思いますが、Photoshop などを使ったアミカケ処理では、高精細なアミカケにはならないことが理由です。このため、グレースケールのまま貼り付けておき、印刷所側でアミカケ処理をしてもらいます。このようにすると、綺麗なアミカケ印刷をしてもらうことができます。

これは Photoshop のアミカケ機能が悪いということではなく、600dpi 程度の解像度のアミカケでは綺麗なアミカケにはならない、というのが最大の理由です。印刷所側のプリンタでアミカケ処理をしてもらうと、600dpi よりも高い解像度でのアミカケ処理になるため、綺麗に印刷してもらうことができるようになります。(ちなみにこのことは、パソコン用の通常のレーザープリンタにも当てはまる話で、たとえ解像度 600dpi のレーザープリンタを使ったとしても、グレースケール原稿をそのまま打ち出した場合と、600dpi でアミカケモノクロ 2 値化してから打ち出した場合とでは、前者の方が圧倒的に綺麗になります。一度、試してみるとよいかと。)

……というわけで、まずは文字原稿と写真原稿の正しい扱い方を解説しましたが、長くなったので次のエントリに分割します^^。

というわけで今日はこちらの話をひとつ。

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『デフレの正体 - 経済は「人口の波」で動く』。最近あんまり新書を読んでないなぁ、ということで、書店でベストセラーになっていた一冊をチョイスして読んでみたのですが、これがびっくり、めちゃめちゃ面白い一冊でした。

要点を一言でいえば、日本経済は景気ではなく人口の波で動いている、ということ。これを 客観的な数値データを持ち出して、論理的に綺麗に紐解いていく一冊。特に見事なのが、現在、新聞やテレビなどで声高に叫ばれている景気対策や施策がどれほど的外れで荒唐無稽なものであるかを、明快な論理で次々と一刀両断にしていくところ。例えば、失業の悪化が叫ばれているけれども、失業者数と就業者数の増減を踏まえてこれを言っているのかどうか?など。ここ 10 年にあった景気向上はなぜ実感が沸かなかったのか、数字の取り方ひとつ、見方ひとつでこれほどまでに読み取り方が変わるものなのか、とびっくりさせてくれる一冊です。

自分的まとめとして要点だけを書きだしてみると、

  • 今の日本の景気は、海外輸出に大きく依存している。
  • 日本の工業製品などのブランド力は極めて高く、ほとんどの国に対して貿易黒字になっている。しかし、日本はフランス、スイス、イタリアに対して貿易赤字。これは、この 3 つの国が極めて高いブランド製品(特に女性向け)を持っているため。
  • 今後も日本が国際競争力を維持できるかは、フランスやスイス、イタリアなどと同様の、高いブランド価値を持つ製品を創出していくことができるかに依存する。工業製品の分野などではこれは難しい。
  • 今後、5~10 年間で団塊世代が引退を迎えるため、生産年齢人口(幼少児と高齢者を除いた人たちの人口)が一気に激減する。高齢者は健康のために資産をストックするため、生産年齢人口の減少は、そのまま内需(消費)の縮小に直結する。
  • 生産年齢人口の大きな減少(=内需の縮小)は、景気改善の効果をまるごと打ち消してしまう。内需が拡大しない限り、景気改善の実感は得られない。
  • 取るべき施策は 3 つ。① 生産年齢人口が減るペースを少しでも弱める。② 生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を維持し増やす。③ (生産年齢人口+高齢者による)個人消費の総額を維持し増やす。

と、こんな感じ。数値データを割愛したので、これらの結論だけピックアップするとあまり説得力がないように見えますが、とはいえ日常的な実感と見事に合致するこのような結果が数値データから読み取られている点には驚きます。なるほど確かにそういうことなのか、という感じ。①~③についても、非常に論理的に明快な解答を提示している点は評価に値する、と思います。

ただその半面で読んでいて思ったのは、「それができれば苦労はしないんだよなー;」ということ。おそらく著者の方もよくわかっていらっしゃるとは思うのですが、人間の問題の解決を阻むのは人間だったりするのですよね;。これが実現できれば本当にいいんだけどなぁと思う半面、これらの施策を進めるためには、いろんな逆風を乗り越えていく必要があろうと思いました。

とはいえ、様々な示唆に満ちている一冊。今の世の中の現状を等身大に把握する、という意味でも非常に勉強になりました。予備知識がなくてもだいたい要点はつかめると思いますので、ぜひ興味が向いた人は読んでみてください。

というわけで土曜日の話。作業にたまたま狭間が出来てしまったこともあって、奥さんのバーゲンセールに一緒に行った後でこちらを襲撃~。

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ええっと、六本木ヒルズで開催されている、地球最古の恐竜博。ここ、昨年は天空のアクアリウム(水族館)をやっていたところなんですが、今年はテーマを変更して恐竜博に。もともと私の誕生日のときにデートで行こう~、という話になっていたのですが、なにげにその時はまだ開催されておらず、開催されたら行こうねー、……と言っていたら今度は閉会間際に;。で、タイミングも良かったので慌てて行ってきた次第、だったりします。

この恐竜博はなにかとゆーと、今から約 2 億 3000 万年程度前の、三畳紀と呼ばれる時期に生きていた恐竜たちの博覧会。我々が知っているステゴザウルスやプテラノドンよりも遙か前に生きていた恐竜たちの博覧会です。私は調べてみるまで知らなかったのですが、地球では大量絶滅が過去数回起こっていて、その中でも最大の大量絶滅が、約 2 億 5100 万年前の P/T 境界大量絶滅。その後の三畳紀に初めて恐竜という生物が巨大大陸であるパンゲアを跋扈することになるのですが、この時代の恐竜を取り上げたのが今回の博覧会。ちなみにこの後、約 1 億 9960 万年前に再度、大量絶滅が発生し、その後、ジュラ紀(ステゴザウルスやスーパーサウルスの時代)、白亜紀(ティラノサウルスやプテラノドンの時代)が続き、そして 6550 万年前に再び大量絶滅があり、恐竜が絶滅して哺乳類の時代が始まった、という流れなのだそーです。(超受け売りw)

……とまあそれはともかく、博覧会はこんな感じ^^。

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まあ簡単に言えば、いくつかの発掘した骨から骨格全体を推定し、それを立体模型で復元して展示している、という次第。世界遺産であるアルゼンチンのイスチグアラスト自然公園で三畳紀の堆積物が表層に露出していることがわかり、最近、発掘がかなり進められているらしく、世界初となる展示物も多数ありました。

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立体模型の展示や、CG を利用した再現イメージムービーなどの展示もあり、大人が見てもなかなかに楽しい内容。学術的にはいろいろと難しいところもあるのでしょうが、簡単に言えば、いわゆる恐竜の祖先と、ワニの祖先と、哺乳類の祖先との 3 系統に分類し、生存をかけて争う恐竜とワニ、そして虐げられる哺乳類、というわかりやすい構図を作っていました。素人にでもわかりやすい説明になっているあたりが感心するところで、なるほどこれなら割と誰でも楽しめるよなー、と思ってしまいました。

でも最後に苦笑いしてしまったのがこちらの話。

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実はこの展示会、52F のスカイギャラリーをまるごと貸し切っているわけではないのですね。外周の展望台部分を除く、内側の部分だけを使って展示が行われており、外部の展望台部分は別料金がかかる、という仕組み^^。いやー、商魂たくましい?? と言いたくなるところですが、まあ逆にこれは考えようによっては有難い話。というのも、やはりこの高さとなるとカップル客が非常に多いわけなのですが、恐竜展示の方に関しては小さい子供連れのお客さんもかなり多いのですよね。最終の土曜日ということもあってか、数割は元気な子供を連れた家族連れのお客さんもあり、別料金制にしていたおかげで外周展望台部分はほとんど大人たちしかいなかった、という次第。恐竜展示には興味がない、というカップルにとってもこの仕組みの方が助かるかもしれませんね。

ところでご存じの方も多いと思いますが、せっかくなのでこちらのサイトをご紹介。

地球カレンダーというのは、46 億年前の地球誕生から、西暦 2010 年の今日までを 1 年間に見立てたとすると、何月何日頃にどんなイベントが発生することになるのか? というのを説明したもの。せっかくなのでざーっと眺めてみていただきたいのですが、これによれば、恐竜が誕生したのって、せいぜい 12月中旬ぐらい;。さらには人類誕生に至っては、大みそかのせいぜいお昼頃;。20 世紀なんて 1 秒で終わってしまうほどで、いやはや、我々人間というものがどれだけちっぽけな存在なのか、ということを改めて思い知らされます。我々がどんだけ頑張っても、今から 30~40 秒後には気候変動で人類滅亡かー;、とか思うと、なんかもっとやらなきゃいけないことが別にたくさんあるような気もしてきますね。

こういう俯瞰的な視点は、どうしても日常生活だけからでは出てこないものだけに、たまにこうした歴史的なものに触れることは大切なのかも、という気がします。いい刺激になりました^^。

ふう~、というわけで久しぶりのエントリ~;。や、最近めっちゃ仕事が忙しくて;、なにげに仕事に追われて綱渡りの生活をしているワナ。自分的には相当珍しいことで、普通は締切にもかなり余裕をもって仕事を進めているのに今年は次から次へと仕事が入ってくる;。まあ無理もないことで、ここ半年ぐらいは今流行のクラウド関係のお仕事をしている関係で、とにかくスピード重視なお仕事になっちゃってるのですよねぇ;。確かにこの領域は出遅れることが致命傷になる領域だし、10 年後の未来がここ数年で決まってしまう、と考えると、まあ頑張るしかないところ、ですね。……っつーか結婚式大丈夫なのか自分;;。

とまあそれはともかく、せっかくなので、たまには真面目なお仕事エントリをひとつ。以前にも似たような話を書いたことはあるんですが、最近また再び思ったことだったりするので。

最近、若手のメンバーと一緒に仕事をしているのですが、このメンバーが実は外国人。日本に滞在している時間も長く、いずれは帰化したいと思っているぐらいなので、そこそこ日本語が堪能なのですが、そうはいってもやはりネイティブに比べると、怪しい日本語は多数。ま、これは仕方がないのですが、ちょっと参ってしまったのは仕事のクォリティ。出てくる仕事の質が結構いい加減、なのですよね。「これちゃんと動作検証してから書いている?」「あ゛ー、それはしてないですね」、っておいおい;、状態なのですが、この話が非常に厄介なのは、怪しい日本語に隠されて、仕事の質的な問題が今までクローズアップされていなかったという点。本人と話をしてみると、日本語がネイティブに比べて弱いという自覚はあるのだけれども、仕事の質に対する意識はどうも薄かったようで、「おいおい~;」と言いたくなってしまったり。その同僚は別の案件とかけもちで仕事をしていたこともあり、時間があまり取れないことによっても質が下がっている面が。

でもって、この同僚に対しては、二つの指示を出しました。

  • 極力、日本語の文章を書かず、箇条書きや短文で情報をまとめてもらう。
  • 量をこなしきれなければ一部に絞っていいので、質の高い、間違いのない仕事をしてほしい。

前者は日本語に対するケア、そして後者は仕事の質に対するケア。前者についていうと、(ネイティブであっても)日本語が苦手な人って、文章をだらだらと長く書いてしまうクセがあるのですよね。だいたい目安としては 1~1.5 行で 1 文ぐらいにするのがよい。(これぐらいで文章を切らないと、修飾語の関係が掴みにくくなったり、主語/述語のねじれが生じやすくなる) でもどちらかというと後者が重要。時間が足りないためにクォリティが落ちているのか、そもそもクォリティの高い仕事ができないのか。前者であればやむなし、という話になるのですが、後者であった場合は大問題で、本人に仕事のクォリティを意識してもらうことがものすごく重要、なのですよね;。

やってくるタスクをとにかくこなす(なんとか形にする)ことが重要なケースと、とにかく質を高めることが重要なケースとがあるわけで、自分がやっている仕事がどちらに属するのか? をきちんと意識しながら仕事をすることが大切。そして、高付加価値ビジネスを行うためには、仕事の質のあくなき追求、すなわち only one のアウトプットを出せることがとてつもなく重要。そういう意識を持って、日々仕事をしていくことが大切なのだと思います。……いやまあ、なかなか難しいのは確かなんですけどね、昨今のビジネスの状況だと;。

というわけで今日はこちらのインプレをひとつ。

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ええっと、「ボーイング 777 機長 まるごと体験」。サブタイトルには「成田/パリ線を完全密着ドキュメント」とありますが、その名の通り、ボーイング 777 を取り上げて、離陸から着陸までの一連の流れを紹介するという一冊。その中には、フライトプランの作成のブリーフィングや、ハンガーアウト、グラウドハウリングなどの、いわゆる「空を飛んでいない部分の話」も数多く書かれており、非常に読んでいて楽しい一冊になっています。

この本、サイエンス・アイというシリーズの一冊なのですが、このシリーズは科学技術に興味を持つ高校生や大学生、社会人を対象にしているのだとか。今、自分が読むともうちょっと突っ込んだ内容を知りたくなってしまうところはあるのですが、高校生ぐらいの人が読んだらこれは楽しい一冊だろうなぁと思ってしまったり。確かに「もっと詳しく知りたい」という気はするものの、大人が読んでも、新幹線の往復でさらっと読み流せる気楽さがあり、堅苦しくなく楽しく読めるようになっているのは特筆すべきポイントかなと思います。

ところで私は全く知らなかったのですが、この本の巻末に紹介されていた、ANA の新しいプロダクトサービス "Inspiration of Japan" というのがなかなか面白そうな気配。ビジネスクラスに導入されている「スタッガード」と呼ばれるジグザグなシート配列が中でも興味深くて、ビジネスクラスながらパーソナルスペースに近い空間を実現しているのですね。なるほどこれはうまいなぁと感心してしまったり。まあ自分が乗る機会はまずなさそうな気配ですが;、機会があれば使ってみたいと感じさせてくれるシートではありますねー。

というわけで今日はこちらのインプレをひとつ~。

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ええっと、最近のビジネス書のトップセラー、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」。ちょっとした理由から、自分の通う高校野球の女子マネージャーをやることになった主人公みなみ。そもそもマネージャーって何をするのか、右も左も分からない彼女だが、ヒントを求めて立ち寄った本屋で「ピータードラッカーの経営書『マネジメント』を手にしたことをきっかけに、弱小野球部を大きく変えていく……という物語。きっとベタな本なんだろうなぁ……とは思っていましたが、読んでみると予想以上にベタな本(笑)で、いやはやこれはかなり面白いじゃないですか^^。

本の内容についてはいろんなところで書かれているでしょうし、「読めば分かる」類のものなので避けますが、この本、やはり目の付け所が上手いなぁ、と思ったり。そもそも著者である岩崎氏がこの本を書くことになったきっかけは、なんでも FFXI がきっかけなのだとか。FFXI のパーティプレイをうまく行うために Web の日記を巡回していたら、ドラッカー氏の言葉がたくさん引用されていたサイトがあり、それがきっかけでドラッカーを読み始めたのだとか。そして読み始めてみると、その内容が必ずしも経営のみならず、組織運営全般に当てはまる内容であることを知り、当時勤めていた秋元康事務所での AKB48 のマネジメントにもかなり役立つものがあったのだとか。そのときの経験などをきっかけにして執筆されたのがこの本、なんだそうですね。

確かに、自分たちってプライベートとビジネスのことを分断して考えがちなのですが、プライベートとビジネスは比較的地続きなところも多い。普遍性な捉え方をすれば、ビジネスでの知識がプライベートで役立つこともしばしばある。この「マネジメント」(マネージャ)などはまさにそのひとつで、組織やチームが構成されるところに全般的に当てはまるものがあるからこそ、このような書籍が可能になるのですよね。こうした「普遍的な読み方」ができるかどうか、というのは、様々な知見をうまく吸収して生かしていくためには絶対必要なものの見方……なのですが、頭でっかちに知識を振り回して紋切り型の判断を下す人って、世の中には意外に多いのですよね;。特にドラッカーのようなカリスマ的存在の人の場合には、そうした「困ったタイプの信者」も多いであろうだけに、こういう本の存在はとても大切だなぁと思いました。

敢えて難点を書くとすると、全体的に文体が非常に硬くて、物語としてぎこちないところ、でしょうか。まあぶっちゃけストーリーなんておまけですよ、偉い人には(ry、な本ではあるのですが、読みづらさを感じたのも事実。できれば小説家みたいな人に協力を得たらもっと読みやすい本になったんじゃないかなー、と思いました。

とはいえ、「経営」なんていう難しいものに興味がなくても気軽に読める良著であることは確か。組織のマネジメントに汎用的に役立つ一冊なので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

さてさて、いろいろ blog ネタはあるのだけれども書くのが追いついていない今日この頃;。ううっ、仕事が忙しいんだよー、と思いつつも、今日はこちらのインプレをひとつ~。

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「葬式は、要らない」……ってこれはまた挑戦的なタイトルだなぁと思うのですが^^、宗教学者である島田氏が執筆した一冊。中身を読んでみると、どちらかというとこれは葬式自体を否定する本ではなくて、戒名や檀家制度の在り方を考え直すことにより、形式的に行われている葬式というものの在り方を問う本、ですね。敢えて言えば、「葬式業者が行う高額で形式的な葬式は、要らない」というのが正式なタイトルになるかな、という感じ。

ベストセラーの新書棚に置かれていて、その挑戦的なタイトルについ興味を惹かれて購入してみたのですが、いやはや読んでいてこれは気恥ずかしく感じることばかり;。実は戒名のシステムがどういうものなのかよく理解していなかったのですが、なるほどそういう仕組みだったのですね。自分の整理のためにざっとまとめると、こんな感じ。

  • 戒名とは、本来は、仏教で仏門に入り、戒律を守るしるしとして与えられる名前。日本では、死後の勲章としての性格を帯びた使われ方をしているが、これは本来の仏教にはない使われ方であり、日本ローカルなものである。(死後に浄土で出家して最終的に仏になる、という浄土思想は日本固有で作られたもの。)
  • 戒名にはランクがある。字数が多いほど高いランク、また院殿号の付いた戒名は特にランクが高い。日本では、こうしたランクの高い戒名を授かるために高額の戒名料を支払うケースがあるが、これは日本の都市部特有のもの。
  • 本来、ランクの高い戒名を預かるためには、檀家システムの中で高いポジションに就いている必要がある(ひいては寺院の維持のために手厚い支援をし続けていく必要があった)が、そもそもこうした檀家システムは都市部では機能していない。このため、戒名料として高額なお布施を取る仕組みが出来上がった。

葬式に関しては、日本は他国に比べて特に相場が高く、平均 231 万円。その中でもかなりのウェイトを占めるのが戒名料なのですが、著者である島田氏はこの点に疑問を投げかけています。端的にいえば、そもそも僧侶から戒名を授かるというのは適切なのか? というのですね。その理由として挙げているのは以下のようなポイント。

  • 戒名は、仏門に入り、戒律を守るしるしとして与えられるものだが、日本の僧侶の多くは妻帯しており、そもそも戒律を守っていない。
  • 死後勲章としての戒名は、日本独自の仕組みであり、明確な名付けルールが存在するわけではない。このため、仏教界の中でも僧侶向けの「戒名付け方マニュアル」が刊行されていたり、戒名をつけるためのパソコンソフトもあったりする。(← 調べてみたら Web サイトとかもありました;。)
  • 檀家になっている寺がある場合には、その寺の経済を支えるために、戒名料を支払い、戒名をそこから授かる義務がある。しかし、寺請制度がなくなった今日において、檀家関係にないその場限りの僧侶から戒名を授けてもらう必要はない。戒名が死後勲章としての意味を持つことを鑑みれば、そもそも故人のことを良く知らない僧侶から、その場限りの関係で戒名を授かること自体に疑問がある。
  • どの寺とも檀家関係を結んでいないにもかかわらず、どうしてもランクの高い戒名が欲しいのであれば、本人が生前につけておくなり、遺族が死後に考えてつければよい。本人や遺族がつけた戒名でも、遺骨を一般の霊園に葬るのなら問題は生じない。自分の戒名を自分でつけたり、他人の戒名をつけている事例は実は結構ある。(例:森鴎外は母親の戒名や友人の戒名をつけたりしている) 戒名が死後勲章の性格を持ち、故人が送った生涯や業績、性格を集約するものであるのなら、本人をよく知る人がつけた方が理にかなっている。

ちょwww、と思わずにはいられませんでしたが、なるほどよくよく読むと、確かに理には適っている。なにより、本人のことを良く知らなければ適切な戒名はつけられないはずだ、というのはまさにその通り。さらにこの本には、戒名を作るときの基本的なルールを簡単に説明しているのですが、なるほどそういうルールで戒名が作られるのか、と納得してしまったりしました。

この本では、葬式というものの意味・意義を改めて問い直し、形式ばった葬式ではなく、真に故人や親族を思う葬式をすべきであり、お金をかければよい葬式ができるわけではない、ということを語っているのですが、確かにそれはその通りだなぁと思ってしまったり。特に戒名にまつわる一連の話を読んでいて、母方の祖父がお坊さんから授かった戒名が非常に良いものだったということを改めて理解したのですが、いい戒名を授かるためにはお坊さんとの適切なコミュニケーションが絶対必須なんだろうなぁと思ってしまったり。どんなコミュニケーションをしたのかは今度実家に行ったときにでも聞いてみよう……^^。

こういう話は一度でよいのでこうしたまとまった本を読まないとなかなか理解しにくいものですね;。非常に勉強になった一冊でした。

ふう~、というわけで土曜日。今週は体調が微妙に悪くて、しかもなかなか治らずずるずると引っ張っているのですが、喉風邪はホントに尾を引くものですね。いやはや。

さてはて、ところで実にどーでもいい話なのですが、私が住んでいるマンションは、賃貸専用型の新築物件。今どき非常に珍しい、駅近大型新築物件だったりするのですが、実はなにげに幽霊マンション。なんか人気(ひとけ)がないなぁとずーっと思っていたのですが、あるときはたと気付いたのがインターホンのランプ。これ、当たり前なんですが、通電してないと点灯しないのですよね。つまり、人が住んでいなければ消灯しているわけで、気になって確認したら、今、自分が住んでいるフロアは 15 軒中 5 軒しか住んでいない。つまり、入居率でたったの 3 割強という、マンション運営としては超赤字物件だったりするのですよ;;。なるほどどうりで最近、このマンションの入り口に入居者募集中の立て看などが出来始めたわけですか、と納得してしまったり。

なんかこの話だけ聞くと、「おいおいその物件、大丈夫なのか?」と言いたくなるところなわけですが、こうなった理由はだいたい想像がついてしまう。それは、ぶっちゃけ物件の作りが顧客ニーズと合っていない。この一点に尽きます。このマンション、実はシングル向け物件が非常に多くて、だいたい全体の 8 割程度が 45m^2 以下のシングル向け物件。私が最初に物件全体のレイアウトを見たときに感じたのが、こんなに小さい部屋を雨後の筍のごとく作ってどーすんのよ? ということ。もともと大学が近いことや駅近物件であることもあって、シングル向けの物件を増やしているのでしょうが、例えば今の 1DK 物件を 2 つつなげて 60m^2 前後の 2LDK 物件にしたら、かなりイケてる物件になる、と感じたのですよね。(地型も悪くないので) ところが、ファミリー向けの 60m^2 前後の物件がこのマンション内にはほとんどなくて、全体の 2 割以下。しかも、その中で使い勝手のよいフロアレイアウトのものは 1 種類しかなくて、そこまで絞ると総戸数の 1 割以下しかない。

自分が物件を借りるのであればこのタイプの部屋しかあり得ない、ということでその物件を押さえたのですが、どうにも首をかしげてしまったのは、どうしてこんな細切れレイアウトの物件ばかり増やしたのか、という点。不動産屋さんとそんな話になったときに教えてもらったのですが、細切れにして物件の戸数を増やすのは、貸し手としてのリスクヘッジのためなんだとか。要するに、大きなファミリー向け物件を作ってしまうと、借り手がどうしても限定されてしまう。そうなると、入居者が退出した際に新しい借り手を探すのがなかなか大変になる。「卵をひとつのかごに盛らない」という原則よろしく、リスクヘッジのためには物件を小さく分けるのが賃貸マンションの常識なんだとか。

それを聞いたときに一瞬「ほー」と納得しかけたのですが、いやいやちょっとマテと思ってしまうワナ。その理屈は、物件の借り手となりうる人が比較的潤沢にいる場合にしか当てはまらない。この物件の場合、新築駅近という良条件が揃っており、1DK~1LDK 物件としては相当高い。このためそもそもこの物件を借りられる人自体がかなり限られてくるのですよ。2LDK 物件であれば、ファミリー層ということもあって借り手の層がかなり変わってくるのですが、1DK~1LDK 物件の場合、主な借り手は学生やサラリーマン、あるいは単身赴任者など。こうした人たちが果たしてこんな高い物件を借りるのか?と考えるとそんなわけはないはずで(周囲には安い一人暮らし物件がごろごろしている地域なので;)、フタを開けてみたら、予想通りガラガラ、というオチになっていたりするわけです。ありゃりゃ;。

端的に言えば、企画主導で頭でっかちに貸し手の論理で物事を考えるからこうなるんだろう、と思うのですが、そういう視点で見ると、フロアレイアウトなどいろんなところに貸し手の理論が見えてくる。例えば今の物件は、フロアの天井高が低い上に異様に梁(ハリ)が多いのですが、これはフロアの高さを押さえて階数を増やすのが目的。あるいはフロアレイアウト上、キッチンや流しが妙な位置にある部屋が多いのですが、これも隣の部屋のレイアウト図とくっつけてみれば一目瞭然で、水周りを一箇所に集中させるための施策。分譲物件だったら絶対にあり得ないレイアウトがいろんなところに見て取れるのですが、それは端的に言えば、企画主導で借り手の気持ちを考えていない、ということなのですよね。

さらに物事を悪くしているのが、この物件、銀行系の物件なので、借り手が付かなくても賃料を落とすことをしないらしいのですよ;。普通の民間企業なら、早い時点で見切りをつけて損切りをするものですが、そういった判断が今この状況になっても行われていない。そのうち入ってくれるんじゃ……と甘い気持ちを持っているのかもしれませんが、そもそも 4 月の入学・引越しシーズンを外した段階で負けが確定しているわけで、傷口がどんどん広がっているワナ;。

これだけひどい状況が見えると、こりゃ 2 年後に賃料上げてくるんじゃないかなぁ……と思ってしまうのですが、結局、ここまで酷い状況を作り出しているすべての原因は、何もかもが作り手・貸し手の理屈で動いているから、だと思うのですよ。借り手の気持ちになって考えれば見えてくる部分もあるのでしょうが、ソロバン勘定だけで作られた物件にはなかなか血が通わない。お客様の目線や視点で考える、という当たり前の発想と、ソロバン勘定のバランスを取ることがとても重要なのでしょうね。

……いやまあ、自分たち的には今のこの状況はある意味ラッキー、という見方も出来るんですけどねー(笑)。

というわけで最近は結婚式場選びに奔走していて、合間合間でそれぞれの実家を回ったりそれぞれの友人に会ったりする忙しい日々。土日も朝から早起きするというなかなかキツい生活を送っていたわけですが、昨日は奥さんの中学校の親友が東京に出てくるということで奥さんと一緒に会ってみたり。彼氏と一緒に遠方から東京に出てきたそうで、彼氏が友人の結婚式に出ている間、彼女の方と一緒にみんなで飲んだり語ったりしていたわけなのですが、いろいろ話を聞いてみると、彼氏との関係についてあれこれ考え込んでしまってぐ~るぐる、な様子;。とても誠実な彼氏くんで、自分のこともものすごくよく考えてくれているらしいのですが、でもいろいろと悩ましい部分もあるのだとか。彼女の方は、年齢的に結婚ブームということもあって、真剣に結婚を考えてはいるものの、あれこれ考え出すとキリがなくなってぐるぐる回ってしまう、といった様子。

その後、夜になって彼氏も飲み会に合流してくれたのですが、会ってみて納得。ああなるほど、彼氏はものすごく誠実なんだけど、どこか物足りなさがあるのもわかる。それは端的に書くと、線の細さの部分(メンタル的な弱さの部分)だろうなぁ、と。

過去を振り返ってみると、私も最初の会社でメンターを担当した後輩が同じようなタイプ。非常に誠実で、根っこの部分は曲がっていない。けれども、まだ未開の土地の草木を掻き分けてまっすぐな道を切り開いていくだけのパワーも力強さもない。どこか頼りなさげなところがあって、勢いに欠けるところがある。そんな後輩のことを思い出したのですよね。

自分の経験を元にして言うと、30 歳以前の若い子で自信家タイプの場合、ほとんどはただのイタい人;。実力も実績も伴っていないにもかかわらず、どこかで脳内保管して、「オレオレ」になっていることは少なくない。だから 30 歳以前であれば、そうした「強さ」は持ち合わせていなくて当然だし、持ち合わせていないほうがよいのですが、問題なのは、20 台の子が、どうやってその「強さ」(自己肯定感)を身に付けていけばいいのか(どうすれば強さが身についていくのか)、という点。

よく、自己肯定感の形成は、幼少期にどれだけ育まれたのかに依存する、と言われます。要するに、幼い時期に、親(保護者)にどれだけありのままの自分を受け入れてもらったのか? もちろん自己肯定感が行き過ぎればただのイタい人になってしまうので要注意なのですが、そうした幼少期の経験によって本人の自己肯定感がかなり変わってきて、引いてはそれが自分に対する自信などを大きく左右する、と言われています。でも、この自己肯定感の形成は、幼少期だけの話ではなくて、学生や社会人になってからでも同じ話なんじゃないか、と思うのですよね。会社からどれだけ褒められるか、お客様からどれだけ感謝されるのか。そうした positive feedback の有無は、本人の仕事上のストレス値を大きく左右するし、生きていることに対する実感や充実度すらも左右してしまうところがあると思うのです。

しかし現実的なことを言えば、positive feedback を得ることはなかなか難しい。特に昨今は、仕事が厳しくなってきていて、褒めることよりも叱ることがどうしても増えているし、よほどの成果を出さないと、褒められることはなかなか難しい。そうなってくると、「誰からも褒めてもらえない」「誰からも癒されない」状況が起きてしまう。これが続けば、自分の仕事に自信がなくなってしまったり、下手すれば自分の価値すら疑ってしまうようになってしまう。

こうしたデフレスパイラル状態に陥らないようにする際に重要なのが、友人や家族、あるいは恋人だったりすると思うのです。身近な人だからこそ気付ける「その人の良さ」をきちんと positive feedback として伝えること。それが、その人を支えることにつながっていく。ある意味、それは「拠って立つ場所」なわけで、それがあるとないとでは、自己肯定感のベースラインが随分と違ってくるのではないかと思うのですよね。

# ちなみに前述の私の前職の後輩は、その後、割と早くに結婚して、仕事でも着実に成果を
# 上げて行っていたのですが、こういうタイプの人が「支えてくれる場」(=家族)を持つと、
# ちょっとやそっとのことではへこたれないのですよねぇ。

20 台の若手の場合には、まだまだこれからの成長が楽しみな「伸び盛り」。だからこそお互いが支えあうことで素敵なインフレスパイラルになっていって欲しいなぁ、と思ってしまったり。お互いが性格的な部分で惹かれあっているのがわかるだけに、うまくいって欲しいなぁと思えるカップルでした。

今日はこちらの書評をひとつ~。

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ええっと、「アップル、グーグル、マイクロソフト クラウド、携帯端末戦争のゆくえ」。先月に発売された新書のようですが、内容としては、クラウドコンピューティングの世界において覇権を競っている 3 つの企業、アップル、グーグル、マイクロソフトの 3 社について、そのアプローチの違い、市場で何が起こっているのか、そして日本企業がどのような立ち位置にあるのかを、極めて平易に解説している一冊……なのですが、いやはやこれが恐ろしく良く書けている、というか実に見事な一冊じゃないですか。

グーグルとマイクロソフトのアプローチの違い(グーグルはクラウドから、マイクロソフトはオンプレミスから)はよく言われることなのですが、この本の面白いところは、その 2 社に加えてアップルをクラウドプレイヤーに含めている一方で、amazon を外しているという点。通常、amazon はクラウドプレイヤーの主要な一角として語られるのが普通ですが、amazon はハードウェアレンタル(IaaS)に注力しており、プラットフォームビジネス領域(PaaS)には弱い、というのですね。むしろ PaaS 領域としては実はアップルが非常に存在感が強く、特にクラウドプレイヤーの中で課金インフラを持っているところが極めて大きなポイントである、という主張については非常に納得のいくところ。

そしてさらに面白いのは、各プレイヤーのコアロジックを明確にしている、という点。例えば、グーグルは、情報の流れを掌握することに主眼を置いているのであって、クラウド化そのものにこだわっているわけではないという点、またアップルはクラウドで覇権を握ることを狙っているわけではないという点。こうした点を明確にしながら、さらに日本企業がなぜクラウドビジネスで出遅れているのか、今後も明るい見通しがないのか、という点について、感覚的ながらも非常に腑に落ちる理由をいくつも提示しているのですね。モノ作り、ハードウェア偏重の日本の文化は、既存のルールセットの中では芸術的なまでに完成度が高いけれども、ルールブレイカーが横行するクラウドビジネスの世界では通用しない、という筆者の論調には、強い説得力があります。

いやはや、私もこの辺は本業ということもあってひととおりのことは分かっていたつもりでしたが、モヤモヤしていた部分も含めて、こうも見事にスパッと分かりやすく整理・結論づけられているとぐぅの音も出ない、という印象。IT に明るくない人にもわかりやすい平易な言葉で書かれている見事な一冊なので、興味のある方はぜひ読んでみてください。いやはや、なかなか面白かったです。

というわけで今日は先日のコメントから一つ~。

> はじめまして。数年前からこちらのブログを拝見させていただいています。職業
> 人ならではの硬派なエントリーが好きなんですが,最近全然無いですね。なんだか
> 主婦のブログみたい・・・。

すいません、思いっきり吹き出してしまいました;。い、いやまあ自分の話ではあるのですが^^、まあ確かに自分、主婦みたいなとこあるよなぁと苦笑^^。私の場合は「そういうものもかなり好きw」なのですが、その一方であんまり職業人っぽいエントリを書くのも説教くさくなりやすいので、なかなか書きづらかったりもするのですよねぇ;。とはいえ、まあたまにそんなエントリが書きたくなることもあるので、今日は真面目なエントリを一つ。

最近、とみに組織が弱体化してきていて、仕事がやりにくいなぁ……と感じることが多々あるのですが、不思議なのはみんな相当に頑張っているにもかかわらず、一向に状況が改善する気配がないということ;。仕事をどれだけやっても全くラクになる気配がなくて、むしろ自転車操業的に追い詰められている感がどんどん強くなっていっているのですが;、そもそもなんでこんなことになっているんだろう、と考え込んでしまったり。

物理的に仕事が多い……というのはまあわかるのですが、それ以上に気になるのが、各担当者のスキルレベルがまるで上がってこない、という点。別に派遣さんというわけではないし、それ相応に責任のある仕事を任されているのに、ぜんぜんスキルレベルが上がってこない……のですね;。磨けば光るであろう素質を持った人たちがこれだけ集まっているにもかかわらず、なんでこんなことになるのかなぁ、と悩んでしまったのですが、つらつら考えているうちに気付いたことが。これ、多分、仕事が最適化されているがゆえに組織が弱体化しちゃってるんだなぁ、ということ。

ここ数年、組織的な取り組みとして、マネージャ層の強化や、仕事のアサインの最適化に力が注がれてきて、それについては一定の成果を出しつつある。実際、大きなトラブルが発生することも以前に比べれば少なくなってきている。これだけ見ると「いいことじゃないか」と思ってしまうのですが、おそらくこれが大きな問題。最適化された仕事のアサインは、おそらくリスクの低い仕事のアサインだったり、効率的な仕事のアサインだったりすると思うのですが、たぶんそれが、結果的に OJT での育成のチャンスを減らしてしまっている、と思うのですね。

特に問題なのが、管理スキルセットやロールモデルの細分化。例えばスキルセットについて言うと、従来であれば、技術領域を A, B, C とおおまかに 3 つに分けて、各人の専門領域が A~C のどれか?という形で決めていたはずなのですが、組織がより大規模化して、より最適なアサインを心がけるようになってくると、この専門領域(スキルセット)の管理がより細分化してくる。例えば従来だと「A」とひとくくりにされていたものが、「A1, A2, A3, A4」といった具合により細かく分割され、細かい粒度で専門領域管理が行われるようになる。そして、なるべく同じ専門領域の仕事をたくさん与えることによって、効率的に仕事を回してもらおう……と考えるのですが、この仕事の与え方って、とどのつまり、昨今言われている派遣いじめの構図そのもの。つまり、「今できる仕事しか仕事を与えない」という考え方そのものなのですよ。

同様の話は、ロールモデルの細分化や最適化についても当てはまる。例えば、従来は、営業と専門職、の 2 つにしか分かれていなかったものを、営業とプロジェクトリーダとプロジェクトマネージャと専門職に分割する。こうすることで、各人の専門性を発揮して、より高度な仕事に取り組めるようにする……と、お題目だけ聞くと聞こえのいい文言を並べることはできるのですが、実際にはこんなことをやってしまうと、営業センスを全く持たない専門職が出来たり、技術のことを全く知らない営業が出てきてしまう。すると結果として、営業に行くときには常に専門職の人を連れていかなければならなくなり、どんどん仕事が大変になっていく。

ちょっとした営業活動なのに、3人も4人もぞろぞろと枚挙してお客さんのところに攻め込む構図は、大企業であればよくある構図ですが、こんなことやってたら仕事の効率が上がらなくても当然、なのですよね。

つまり端的に言えば、タスクの細分化とロールモデルの細分化が、結局のところ、個人のスキルセットの矮小化、そして組織全体の弱小化につながっていく。組織の力を最大に保つためには、結局、個々人のスキルセットを幅広く、かつ深く保つ必要があるのですが、そのためには、タスクやロールモデルについては細分化しすぎてはダメで、適度な粒度に保たなければならないのですよね。

もし組織のルールとしてロールモデルが細分化されてしまうのであれば、個人としては「ロールや割り当てられたタスクを越えた仕事」をしていくように心がける必要がある。そうしないと、結局のところ、正社員であったとしても、まるで派遣社員のような「使い捨て」がされることになってしまう、と思うのです。そういう仕事のアサイン、「最適化」のように見えるけど実態は「硬直化」そして「弱体化」に他ならない。なぜなら、仕事って、三遊間ゴロを積極的に拾うからこそスキルレベルが上がるようなところがあるからなのですよね。

以前は正社員、派遣社員というくくりでこの問題が捉えられていたような気がするのですが、昨今の状況を見ていると、組織や仕事のアサインをコントロールするマネージャ層が、リスクを避けるために「安全な仕事のやり方」を志向すると、この問題が出てくるのではないか?という気がしています。結局、戦い続けない限り、安定は得られない。ある程度のリスクを取って、自分の責任範囲を超えた仕事をするからこそ人は伸びるのであって、「今、出来る仕事を、今までどおりにやり続ける」だけではなかなか人は伸びないもの。貪欲に仕事に取り組んで、自分のスキルセットの幅や深さを広げていくことは、(仮に正社員であったしても)自分自身の身を守るためにとても重要、だと思ったりします。

……というか、お願いだからみんな「それはボクの仕事じゃない」とかいう顔しないでください、ってのが要するに言いたいことなんですけどねー。(と、微妙に愚痴ってみるテスト^^。ま、しょうがないんですけどねー;。)

というわけで遅ればせながら先日ようやく結婚報告 & 転居報告のハガキを出したのですが、嬉しい返信ハガキが何枚か^^。

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や、この 3 枚、いずれも恩師からのもの。正直に言えば、年賀状を送るぐらいしかしておらず、不義理をしていた恩師の方々なのですが、結婚報告のハガキ(しかもこの歳になってから;)にこんなに丁寧に、しかもすぐに返信してもらえたことに思わず目頭が熱くなるワナ;。や、まだちゃんと生徒として目をかけてもらっていたんだなぁ……という感じ。……というかすみません;、状態;;。

でも、私も講師の経験が長いから思うのかもしれないのですが、講師として一度担当した生徒ってなかなか忘れないものなのですよね。私は名前や顔を覚えるのがかなり苦手なのですが、それでも生徒については結構覚えている。おそらく大学受験という、人生の大切な瞬間を共有させてもらったからだと思うのですが、おそらく「育てる」というのはそういうことなんだろうなぁ、と思ったり。何かを与えているようで、実は何かをもらっている関係。だからこそいろんなことをよく覚えているのでしょうね。

にしても、大学時代の恩師が一昨年に病気を患っていた(今は治っている様子)のはぜんぜん知らなかった;。大学を出てかなり経つのでどうしても足が遠のいてますが、何か機会を見て挨拶に伺わねばなぁ……とハガキを見て思ってしまったり。忙しさにかまけてサボっていることは多々ありますが、やっぱりやるべきことはやらなきゃなぁ、と。うむむ;。

さてさて、先日、社内でミーティングをしていたときのこと。プレス発表に備えて、マーケティング担当の人が、技術者の視点からアイディア出しをしてくれないかという話になり、私と同僚の二人がミーティングに参加したのですが、なかなか話が噛み合わない;。その原因は、端的に言えば、「多少不正確なところが入っていてもメッセージを単純化することで、マーケットに自社をきちんと認知させて仕事を取りにいきたい」というマーケティングの思惑と、「多少複雑でも技術的に正しいメッセージを出したい」という技術者の信念の違いによるもの。

まあこれ自体は良くある話なのですが、困ってしまったのはこの後のこと。私はどちらの言い分もわかるものの、このケースではマーケティング視点で話を進める必要があると思って視点を切り替えたのですが、同席していた同僚は「それは正しくない」の一点張り。いや確かに不正確ではあるけれども、一方で別に技術的に見てウソを言っているわけではない。単純化されすぎているが故に不透明な部分を含んでしまっており、結果として、一部のお客さんの立場によっては怒り出すかもしれない内容にはなっている。けれども、メッセージとしては単純明快でわかりやすい。

さて、このケースではどちらの言い分が正しいのか?
私はこのケースだと、マーケティングの担当者の言い分の方が正しい、と思うのですよねぇ。

私も技術者なので、同席していた彼の言い分もよくわかるし、できることなら技術的に正確なメッセージを伝えたい、という思いはある。けれども、技術的な正確性を突き詰めると、メッセージとしてどうしても難しくなりすぎる。結果として、ビジネスサイドからは「小難しい」と理解されず無視されてしまうことにつながってしまう。問題なのは、こういう状況に陥ったとき、声のトーンを大きくしたり、さらにそれを理解してもらおうとして説明を重ねること、だと思うのですよね。私はそういうことはしちゃいけない、と思うのです。

それはなぜか? 理由は単純で、お客さんに理解する努力を求めてはいけない、と思うのです。

表現上、ちょっと誤解を招きそうなので捕捉をするのですが、もちろん、お客さん側にも当然、理解する努力責任はあるし、その責任を放棄すれば、ビジネスチャンスは減る。けれどもそれはお客さん側の問題であって、説明する側が、お客さんに理解を求めるスタンスは間違っている、と思うのですよね。

例えば、学校の先生が、理解の悪い生徒に対して「理解しない生徒が悪い」と言ったり、あるいはいくら説明しても理解してくれないお客さんに対して「お客さんの頭が悪い」と言ったりして、はたして問題は解決するのか? 往々にして、仕事の現場ではお客さんを罵るような行為がよく見られるのですが、そんなことをしても問題は解決しない。大切なことは、問題の解決をお客さんに求めるのではなく、自分自身の問題として捉えなおすこと、だと思うのですよね。

だから、今回のようなケースでは、たとえ単純化したとしても、お客さんにわかりやすいように、お客さんの言葉で、お客さんのレベルに合わせて解説する必要がある。もちろんそれは技術的に不正確であったり、お客さんの立場によっては怒り出す内容になるかもしれないけれども、それは next step の問題として先送りして、まず 60 点でいいから点数を取りに行く、ということが求められると思うのです。

往々にして、相手の目線やレベルに合わせて話すことは技術者にとっては苦痛なのですが(いや私もイヤだなぁと思うことは多々ありますが;)、けれどもそうしなければ物事を前に進められないこともある。よい商品だからといって必ずしも売れていないことがあるのは、そういう意味でマーケットの目線に合わせられていないからだと思うのですよね。

相手の責任にすることは簡単だし気分もいいものですが、自分の問題として捉え直さないと進まない話も結構ある。その場その場の「正当性」「正確性」を単純に追い求めるのではなく、「結果が正しくなるように」柔軟に対応することが必要なんじゃないかなぁ、と思った今日この頃、でした;。

そんなわけで、着々と結婚準備を進めているのですが、最近まで知らなかった話をひとつ。いやまあ大の大人が情けない話ではあるのですが;。

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や、それは戸籍の話。実はそもそも戸籍というものが何かということ自体、今回結婚することになって調べてみて初めて知ったのですが、結婚は入籍とは全く違うのですね;。芸能ニュースとかでよく結婚のことを入籍と言っているので勘違いしていたのですが、基本的なシステムはこんな感じ。……おまえその歳にもなってそんなことも知らなかったのかYo!と複数方面から怒られそうですが;。

  • 戸籍とは、すごく簡単に言えば「日本国民について、親子関係、養子関係、兄弟姉妹などの親族関係を記録・証明するために使われている ID 管理システム」。出生から婚姻、死亡までの履歴がすべてここに記録される。(※ 引越しは記録されない。こちらは住民票で管理。)
  • 戸籍は、夫婦及びその子供が一つのまとまりになって記録されていく。(戸籍のコピーを取る方法が二つあるのはこのため。戸籍謄本とは、戸籍全部=夫婦+その子供全部のデータをコピーするもので、戸籍抄本とは、その中からある人のデータだけを抜粋コピーするもの。)
  • 日本国籍を持つ日本人同士が結婚する場合、それぞれの子供は親の戸籍から抜けて(=除籍)、夫婦二人で新しい戸籍を作り、そこに入る形になる。このとき、戸籍の筆頭者を決める必要があり、婚姻時にどちらの姓を選ぶかで筆頭者が決まる。子供ができたら、その戸籍に追加していく。
    ※ 新しい戸籍に入る、という意味では「入籍」なのですが、本来の入籍の意味は、例えば離婚した際に、奥さんが旦那さんの戸籍から抜けて、元の両親の戸籍に入り直すようなケースのことを指す言葉なのだとか。養子縁組も入籍の 1 ケースだそうです。また、日本国籍を持たない外国人の人と結婚する場合には、「婚姻」はするけど「入籍」はしない、といった形になることもあるため、婚姻と入籍は必ずしも一致していないそうです。
  • 夫婦で新しい戸籍を作る場合には、本籍地を決める必要がある。もともと本籍とは、その人たちが住んでいる土地の地番を戸籍の ID として使おうとするものだったそうですが、現在ではその風習が消え、新しく戸籍を作る際にどこでも好きな場所を選べるとのこと。このため、皇居(千代田区千代田1番地)を本籍地にしている人も結構いるのだとか。人気スポットは北方領土とか竹島、尖閣諸島、ディズニーランドとかいろいろあるそうです(笑)。しかし戸籍謄本/抄本を取るときのことを考えると、なるべく身近なところが便利。
  • 婚姻と戸籍操作は必ずしも一致しない。日本国籍を持つ日本人同士の結婚であれば上記の通りだが、外国人などとの結婚の場合にはこの限りではない。

整理してみるとわかりやすいのですが、要するに、日本人は日本国籍(=戸籍)で ID 管理されており、1 つの戸籍には 1 組の夫婦しか入れない、という仕組みになっている。実際に戸籍謄本を取ってみてわかったのですが、確かにすでに結婚している妹は除籍していて(といってもレコードが削除されているわけではなく、「除籍」マークがついているのですが)、家からいなくなっている、というのが明示されている。なるほどこれは親としては切ないだろうなぁ、と思った次第。

それにしても意外に困ってしまったのが、上記の情報が書かれているページが少ないこと。いわゆる結婚情報サイトなどを見ても書いてないし、Wikipedia は逆に詳しすぎるので、結局普通に検索して調べたのですが、戸籍というのは不思議なシステムではありますね。というのも、今でも「嫁に行く」「嫁に出す」「○○家に嫁ぐ」的な感覚がどこかに残っているし、「結婚は家同士の問題」、などとよく言われる。けれども、戸籍というシステムでは、どちらの子供も親の家を出て、新しい家を作る形になっているのですね。そして仕組み上では、戸籍=ひとつの家、という形なので、婚姻によって、親の庇護から抜けて新しい家を作って独立する、という形になっている次第。なるほどなぁ、と。

こういうシステムのことは結婚のことがなければ調べようとも思わなかったですが、実際、自分の両親や彼女のご両親などの様子や発言を見ていると、昔ながらの風習や考え方と、今どきの考え方などとの狭間で揺れ動いているような印象もありました。自分的な感覚(今どきの感覚)としては、別に結婚したからといって偉いわけでも人間が変わるわけでもない、と思っているのですが、世代感覚として、祖母が死ぬまで私に対して「男はどんだけ稼いでも半人前、結婚して初めて一人前」と言い続けていたのも、最近随分とわかるようになってきた気がします。いろんなものが変わっていく過渡期ゆえの問題なのでしょうが、なるほど戸籍ひとつとってもいろいろあるものなのですねぇ。

というわけで今日は大晦日。例年、大晦日はちょっと真面目なエントリを書くのが自分的ルールになっているので、それに倣って今年も適度に真面目なエントリを書いてみたり^^。

さて、自分的に今年最大のビックニュースはなんだったのかと言いますと。
……いやまあすでに一部の方々にはお伝え済みなわけですが。

彼女ができますた。
エエエエェェェェエエエエ(゜Д゜;)

や、別に二次元脳内じゃなくてちゃんとリアル彼女でして;、気付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこの blog にも何度か登場していたり。付き合い始めてからそう長くもないのですが、既に婚約もしていて、近いうちに入籍予定だったりします^^。って、おいおい出来ちゃった婚、もといおめでた婚デスカ??と疑いたくなるかもですがそういうわけでもなくて、付き合い始めたら、自然と「ずっと一緒にいようね」という話になり、「じゃ結婚しようか」とさくっと話が進展。迷うどころかそれ以外に選択肢なんてないよね、的にほぼ即決になったあたり、正直自分でも激しくびっくり;。もともと自分は石橋を叩いて壊すタイプ(=相当に慎重なタイプ)なのですが、あまりにも予定調和的に話がするするっと進んでしまっただけに、いやはや決まるときにはこうもあっさり決まるものなのか、と自分でも驚かずにはいられませんでした。

ちなみにどんな人なのか興味津々な方もいるかと思うのでざっくり書いておくと、笑顔が明るい優しい人。一緒にいると自然と笑顔になれる人で、恐ろしいほど自分と波長が合っている……というかこれ以上なく自分に最適化されていて;、オタクではないものの、趣味や性格がかなり合ったりします。かつては RO 廃人(FCAS セージ)、そして今は ECO デビュー。もちろん趣味が合わないところもあるけれど、例えば私がかわいいもの担当なら、彼女は凛々しいもの担当、といった具合に見事なまでの役割分担(?)。二人とも甘いもの好きなおかげでもっぱらデートコースは甘味めぐり、そうでなければ全力で引きこもりという、お前らちょっとは外に出ろ;;;、な困った二人組になりつつ……や、なので二人でこんなも のも購入していたわけですよw。

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おそろい VAIO X。(笑)
や、実をいうと二人で購入しちゃったりしていたのですねー^^。

# しかしどちらが私のマシンかは一目瞭然すぎる....;

苦笑いしてしまうのはお互いのイネイブラ気質。合わない部分もお互い普通に譲歩して綺麗に刷り合わせられるおかげでここまでケンカもまるでなくて、そんなわけでここ最近はとってもめちゃめちゃハッピーライフを満喫中だったりします^^。

そんなわけで今年はプライベートで激動の一年になったわけですが、振り返ってみて改めて思うことが一つ。それは、努力と結果は必ずしも結びつかない、ということだったり。……と書いてもなにがなにやら、なので少し補足してみると。

その昔、めちゃめちゃ素敵な奥さんをゲットしたけろっちゃ氏と飲みになったときに、酔いの勢いでふらっと聞いたことがありました。そんな素敵な奥さんをゲットできた勝利の秘訣はなんだったのか、と。その問いに対して、彼はさくっとこう答えました。

「いや、運です。」

おそらくそれまでにいろいろ考えて事前に答えが出ていたからこそ、彼はこの問いに即答できたのでしょうが、この答え、自分に当てはめてみてもやはりそう思うのですよね。実際、なぜ彼女とこうなったのか、と考えてみると、自分にしても彼女にしても、歯車やタイミングがひとつでもずれたら多分この出会いもなかったし、今の幸せもなかった。だから偶然の産物そのもの……いや、これだと夢が足りないのでここは必然だとか運命だとか言うべきなんでしょうが(笑)、まあ、少なからず偶然が絡んでいるのもまた事実、だと思うのですよね。

しかし、偶然が絡むということは、努力したとしても結果が保証されない、ということ。よく、「出会いがないって言う人は努力が足りないんだ」とか、「結婚できない人は自覚が足りないんだ」とか言われるわけですが(私も似たようなことは散々言われた;)、はっきり言えばそりゃ違う。努力したり自覚したりしたからといって、結果が伴うとは限らない。算数ドリルや国語の書き取り訓練のように、自分が努力しさえすれば済むものであれば結果は努力に応じてついてくるかもしれませんが、そんな話が通じるのは子供のうちだけ。大人になってからの事象の多くは、自分ではコントロールできないもの(他人の行動、他人の感情など)が数多く含まれている。そのために、努力は必ずしも結果を保証してくれない。だから、結果が出ていないからといって、その人の努力が足りないとは、必ずしも言えないと思うのですよね。

でも、それでも確実に言えることは、努力しなければ決して結果は生まれてこない。宝くじは買わなきゃ当たらないわけですが、それと同様に、努力しない限り、決して結果は生まれない。書いてみると当たり前のことなのですが、でもこれを実践することは非常に難しいことだとも思うのです。だって、そりゃ当たらない宝くじを買い続けたり、当たらないカジノにお金を使い続けることほど虚しいことはない。成果が出ない努力を続けることは、心理的にもつらいことこの上ない。けれども、それでもなお努力し続けない限り(=諦めてしまったら)、もう決して結果は生まれてこない、のですよね。

先日の話ですが、会社の営業の同僚と話しているときに、こんな話題が出てきました。最近の現場の若い子たちは、お金を稼げることを保証してあげないと全く動いてくれない、と。私の感覚からすると、ある程度の作業を自腹でする(セルフ営業活動、手弁当)はごくごく当たり前のことだと思っているのですが、そういう感覚が今の若手には欠けていて、結果としての成果や評価を先に確約してあげないとまるで動こうとしないのだとか;。そんな甘えた考え方では振れる仕事も振れなくなるわけで、あ゛ー、それじゃその人の仕事の幅は広がっていかないよねぇ、と思ってしまったり。

結局のところこれは、実りや結果が伴わない可能性のある「努力」そのものに価値を見出せるか、という問題なのでしょう。シタゴコロのある恋愛はなかなかうまくいかないものですが、同様に、結果を求める努力がなかなか実らないのもまた事実。だからこそ、私は「努力」そのものに価値を置くような物事の考え方をしなくちゃいけないんじゃないのか、と思うのですよね。

先に採り上げた会社の同僚の話ですが、この人は実はスポーツマンで、冬場になるとスキー場にこもって国体予選に向けた特訓をするという凄い方なのですが、その人いわく、「スポーツは結果が保証されていない潔さがいい」のだとか。社会人選手といってもスポーツ専属採用というわけでもないので、練習する日も時間も限られているし、条件的には圧倒的に不利で、予選を通過することはかなり難しいのだとか。けれどもそれでもチャレンジすることを諦めていない。本人いわく、「いやー、もう半ばムキになってるようなもんですよ(笑)」だそうですが、ひとつでもケガしようものなら完全にチャラ、どんなに努力しても結果が保証されていないというその有り様が好きなのだとか。おそらく、スポーツに限らず、そういう心の持ち方がとても大切なんじゃないかと思うのです。

努力して結果が出なかったことを後悔するのか。
それとも、努力しなかったこと自体を後悔するのか。

昨今の「挫折先送り社会」は、おそらくきっと、努力しなかったこと自体を後悔することにつながる社会なのでしょう。どんな人であったとしても、時間というリソースだけはあらゆる人に等しく与えられたもの。どうせ後になって後悔するなら、努力しなかったこと自体を後悔するよりは、努力したけど結果が出なかったことを後悔したい。結果が伴わなかったとしてもまあしょーがないし、それはそれで諦める、という諦観みたいなものが大切。これから先もいろんなこと、つらいことや大変なこともたくさんあるでしょうが、それでも努力し続けようとする気持ちは持ち続けていたい。私はそんなふうに思ったりします。

# ……なんて書くと、お前はなんだかんだで成功してるからそんなことが言えるんだ、
# と言われると思いますが;、そう思うのであればそれでもよいのだと思います。
# 結局はこの問題、自分が自分の人生に対してどういうスタンスで臨むのか、という
その人本人の問題だと思うのです。だから、この手の話で他人を非難したり否定したり
# したとしても、その人個人の問題は、結局解決されないんじゃないか、と思うのです。

まあでも、結果に重きを置かないとしても、結果そのものについては素直に喜びたいのも本音なところ。来年はこれまで以上にいろんなことがありそうですが、二人で手を取り合って仲良くやっていきたいと思います。これからもぜひぜひ、この blog をよろしくお願いいたします。ぺこり^^。

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さてさて、そんなわけでいよいよ年の瀬も大詰めなわけですが、今日はこれからでじくま氏と博多に行ってきます~^^。ええっと、行き先はこちら!

  • 田村ゆかり LOVE LIVE 2009-2010 *Princess a la mode* 2009年12月31日(木) 21:30開場/22:30開演 
    福岡:福岡サンパレス ホテル&ホール(カウントダウン公演)

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      いきなり浮気とかいう人きらいです。(ぇ

      や、彼女が出来てもオタは続けますよ~?
      だって、オタはなるものじゃなくて生まれるものだからw。(ぉぃこら^^)

      # そんなわけで今年は ECO で年越しできず....それだけが心残り....(ぇ

      というわけで今日はこちらの書評を一つ。

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      「死ぬときに後悔すること25」。正式タイトルは、「1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いた、死ぬときに後悔すること25」。たまたま本屋で平積みになっていたものをタイトルに惹かれて購入してみたのですが、いやはやこれは本当に素晴らしい本じゃないか、と感心してしまったり。

      著者の方は、終末期医療、より具体的には主に末期がんの患者さんの心身の苦痛を取り除く、緩和ケアという仕事をしているお医者さん。まだ33歳という若い方なのですが、約1000人近くの患者さんたちを看取ってきた著者いわく、「身体的な苦痛は取り除けても、その人の心の苦痛を取り除くことはなかなか難しい」。見届けてきた患者さんたちのほとんどは、大なり小なり何らかの「遣り残したこと」を抱えており、それゆえ何らかの後悔をしているのですが、しかしその後悔の度合いや大小にはかなりの違いがあり、そして何百も症例が集まると、意外に似たような後悔が多い、ということに気付いてきたのだとか。ならば、終末期に皆が必ず後悔することを前もって紹介し、元気なうちにやっておいてもらえば、やり残した後悔は大きく減らせるのではないか、ということでこの本を執筆した、とのこと。

      ……とまあここまでは「ふーん」という感じなのですが、実際に読んでみると、これが実に耳が痛い話ばかり、なのですね。

      1. 健康を大切にしなかったこと
      2. たばこを止めなかったこと
      3. 生前の意思を示さなかったこと
      4. 治療の意味を見失ってしまったこと
      5. 自分のやりたいことをやらなかったこと
      6. 夢をかなえられなかったこと
      7. 悪事に手を染めたこと
      8. 感情に振り回された一生を過ごしたこと
      9. 他人に優しくできなかったこと
      10. 自分が一番と信じて疑わなかったこと
      11. 遺産をどうするかを決めなかったこと
      12. 自分の葬儀を考えなかったこと
      13. 故郷に帰らなかったこと
      14. 美味しいものを食べておかなかったこと
      15. 仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
      16. 行きたい場所に旅行しなかったこと
      17. 会いたい人に会っておかなかったこと
      18. 記憶に残る恋愛をしなかったこと
      19. 結婚をしなかったこと
      20. 子供を育てなかったこと
      21. 子供を結婚させなかったこと
      22. 自分の生きた証を残さなかったこと
      23. 生と死の問題を乗り越えられなかったこと
      24. 神仏の教えを知らなかったこと
      25. 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと

      字面だけ読むと誤解しそうな項目もあるので、細かいところは原著をぜひ手にとって読んでみていただきたいのですが、少なからず「あいたたた;」と思う項目がある。さすがに実感を持って感じることのできない項目もあるのですが(遺産の話とか子供を結婚させなかった話とか)、とはいえ多くの項目が「これを死ぬ間際に後悔したら本当に辛いだろうな」と思えるものばかり、なのですよね。

      いろいろと印象的なエピソードが多かったのですが、やはり改めてその大切さを感じたのが #25 『愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと』。他者への感謝の心を持つことは何よりも大切なことだと思いますが、「ありがとう」という言葉で紡がれる世界はとても幸せな世界だろう、と思わずにはいられなかったり。そうした幸せな世界を紡ぐためには、他者に感謝し、他者からの感謝の気持ちに感謝で応えるという、インフレスパイラルな関係を築いていくことがなにより大切なのだろう、と改めて思います。

      自分の心を保つために、人を蔑むような人が少なくない今の時代において、そういう関係を築き合える人というのは本当に少ないものだと思いますが、そういう貴重な友人や知人、親友などは本当に大切にしていきたいものですね。

      なにはともあれ、さすがに多数の症例から出てきたエピソードの数々だけに、一読の価値はある本だと思います。著者の若さゆえにまとめきれていないと感じられる点もあるかもしれませんが、ぜひ一度、お手にとってみてください。

      というわけで今日はこちらの話題を一つ。

      20091114h

      えーと、脳科学者の茂木健一郎さんと、禅僧の南 直哉さんの対談形式本。脳科学者と禅僧という全く相反する二人の対談で、自我意識などの問題を中心として、ウィットに富む対話を繰り広げている一冊。お薦めされたので読んでみたのですが……うーん、予備知識不足かも;、という印象。

      もともとお二人は脳科学と仏教の最先端(?)を走っているわけで、両方にそれなりに造詣がないと、話についていけないところがある。もっとも中核で話題にしているのは、実は脳科学の話でも仏教の話でもなくて、最終的には自我問題で、それがタイトルにある「人は死ぬから生きられる」という話。断片的に、心に刺さるリアルな話が出てくるのはやはりさすがという印象。

      そもそも「生きる」ということや「存在」あるいは「意識」といった問題は結論が出る問題ではなくて、古今東西、悩み続けられている難題。生きることに「リアリティ」を求めようとすれば、そこには苦悩が待っている。それは喉の渇きを癒そうとして、海水を飲み続けるようなものだと思うのですが、面白いのは、二人とも「それに答えはない」という前提条件に立って対談を進めている、という点。

      私は人からよく自信満々に見えるといわれる。なぜそうなのかというと、破綻していも何とか生きられるようにするしかないと思っているからでしょう。「破綻しないでいたい」とか「安心できる居場所がほしい」ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。
      つまりはそれが生を、世界を引き受けることだと私は思うわけです。先ほどから私が、生きることよりも、生きることを引き受けることが決定的に大事だと言っているのは、生が破綻していても構わないと覚悟を決めちゃうことなんですよ。それがいいかどうかはわかりません。ただ、僕はそういう人に激しく共感するし、その決断を尊いと思う。このニュアンスがわかる人には一発でわかる。大抵病んだ人ですけどね。

      脳科学も仏教も、おそらくはあらゆる思想も科学も、この問題に対する「答え」を持ち得ないのだと思うのですが、それでもその答えを求め続けて果てなき問答を繰り返すのが人の業。自己をどのように規定するか、そして規定しても揺らぐ自己や自我意識をどう考えて、次の一歩を踏み出すのか。究極的には「答えもゴールもない」ものだと思うのですが、それでもなお歩み続ける人間こそが「強い人間」と評される、のでしょうね。や、細かいところはわからないところも多かったですが、なかなか面白い一冊でした^^。

      というわけで今日はこちらの書評をひとつ~。

      20091107

      ええっと、「航空機は誰が飛ばしているのか」。特に積極的な興味があったわけでもなく、たまたま本屋で平積みされているのを見て興味を惹かれて買ってみたのですが。

      面白い。
      っていうかこれめちゃめちゃ面白いじゃないですか^^。

      国土交通省の若手官僚が、航空管制の業務を説明する書籍なのですが、とにかく面白いのは、航空管制という極めて専門性の高い業務を、一般人向けに極めて分かりやすく解説している、という点。例えば、航空機を操縦しているのは誰なのか、という話。実際には操縦桿を握っているのがパイロットであったとしても、車間距離を取ったり安全に車線変更したりする作業の大半は航空管制官が行っているのですが、それがどういう意味を持っているのか、といったことを簡潔明快に説明していく。またそうした基礎理論をもとに、発着容量(要するに最大でどれだけの飛行機が離着陸できるのか)の計算方法を示し、滑走路を増やしても発着容量が単純に増えるわけではないことや、実際には風向きによって極めて複雑な滑走路運用が行われていることなどを解説していくのですね。

      しかも非常に面白いのは、単純な航空管制の話にとどまらず、最終的には日本の空の航空戦略全般に話が広がっていくところ。例えば日常的な感覚として、国際便を使う人間としては羽田が国際空港化してくれると助かるとよく思うのですが、じゃあそれが現実的かというと、ものすごくいろんな問題がある、ということを示してくれている。では羽田と成田をバイパスするリニアモータみたいなものがあればいいかというと、いやむしろ羽田と成田を直結する線をつくるよりも、東京-羽田、東京-成田のパスを作るべきだ、といった話がどんどん繰り出されていっていくのですね。

      これは正直、理系な人間にとってはたまらない一冊で、とにかく理路整然としていて納得感がある話を次々と繰り広げていくので、あっという間に読める上に満足感が高い一冊。航空管制に関しては、同人誌で非常に面白い本があって興味を惹かれていたのですが、この本を読んでさらに興味を覚えたり。こういう専門性の高い業務をわかりやすく解説してくれる本は非常に貴重ですね~。面白かったです。

      というわけで、今日はなんだかせつない話を一つ。

      比較的大きな企業や組織となると、事務作業を任せるために派遣さんをお願いすることが多々あるもの。また派遣さんでなくても、細かい事務作業に追われる秘書さんたちは少なくないわけですが、自分の組織にいるこの秘書さんと派遣さん、あまりにも対照的なところに苦笑せざるを得なかったり;。というか、どうしてこの秘書さんはそんなに損をするような仕事のやり方をするんだろうなぁ、と思ってしまったのですよね;。

      というのも、うちの秘書さんと派遣さんの場合、仕事能力だけを比べてみると、圧倒的に秘書さんの方が高い。英語力しかり、行動力しかり、遂行力しかり、人脈しかり、たいしたものだと感心……するのですが、一方で、そこでどうしてそうやってグチるのかなぁ、と思わずにはいられないことがしばしばあるのですよね;。

      というのも、何か作業をお願いしたりすると、「なんであたしが……」とか「あたしはこんなに苦労してるのに!」といった具合に、ややヒステリック気味な反応をする。……のですが、じゃあ不満不平を言った結果として仕事をしないかというとそうではなくて、なんだかんだいっても仕事はちゃんとこなす、のですね。

      一方で、派遣さんの方はといえば、とにかくお客様は神様です、といわんがばかりに、頼まれたことに対しては絶対に No といわず、無理難題であってもとりあえずはいったん引き受ける。……結局うまく遂行できずに誰かのところにお願いしにいくことはしばしばあるのですが(=結構、調子はいい^^)、それでも結果論としては、できなかった場合であっても頼んだ人が不快になったりすることはないのですよね。

      さて、問題なのはこの派遣さんと秘書さんは、はたしてどちらの方が有能なのか、という話。

      まあ、どっちが有能なのか、ということに白黒つけることにはあまり意味がないのですが、重要なのは、この秘書さんが非常に損をしているという点。仕事能力だけ見れば圧倒的に秘書さんの方が上だし、結果だけとれば秘書さんの方が出している……にもかかわらず、グチがあまりにも多すぎるが故に、周りから正当な評価を受けられなくなってしまっているのですよね。

      仕事は、結果さえちゃんと出していれば自動的に評価されるものなのか、というとそういうわけではない。物理的な結果を出すのは当然としても、それに加えて、それがどんなふうに見られるか、受け取られるのか、という点までケアする必要がある。そうしないと、本当はちゃんと結果を出しているにもかかわらず、思ったように評価してもらえない、という不幸な状況に陥ると思うのですよね。私はよく、すべての事物の価値は相手がどう受け取ったのかによって決まる、みたいなことを言うのですが、そうしたところをケアしないことによって損をしている人は少なくないんじゃないかと思ったり。

      先般の秘書さんの場合には、ちょっとグチるのを我慢するだけでものすごく評価が上がるだろうなぁと思えるだけに、非常にもったいない気がします。……いやまあ、グチらないととてもじゃないけどやってられない、ってことなんでしょうけどねぇ;。

      今日はこちらの書評を~。

      20091107b

      えーと、出社が楽しい経済学2。以前、このシリーズの 1 冊目をこの blog でも取り上げたのですが、実は最近、第2シリーズに突入したようで、2 冊目の本が書店に並んでいた次第。さすがに 1 冊目でおいしいネタは使い尽くしてしまったせいか、2 冊目で取り上げられていたのはなかなか難しい内容が多かったのですが、

      • ロックイン
        ポイントカードなどは「得した気分」になるが、実際には選択機会が奪われている。
      • コミットメント
        「安売りはしません」と宣言することで、安売りに対する期待感を削ぐことができる。
      • ヴェブレン効果
        値段を敢えて高く設定することで、消費者の勘違いを引き出すことがある。
      • 心の会計
        シチュエーションによって、お金の重みの感覚がかわってしまうことがある。
      • スクリーニング
        面倒なことを敢えてやらせることで、その気のない人をふるいにかけることができる。
      • 勝者の呪い
        ヤフオクで落札すると、「実はもっと安く落札できたかも;」という悩みに陥る。
      • レントシーキング
        供給量が限られていると、経済的に見て無駄な争いが生まれることがある。
      • 規模の経済性
        規模が大きくなると、固定費については圧縮効果が働く。

      といったところ。中でも面白かったのは「勝者の呪い」。これはオークションにおいて、仮に落札できたとしても、「実はもっと安く落札できた(=損をした)」という結果に陥る問題なのですが、この問題を避けるために、オークションにもさまざまな変形パターンがある、ということを解説しているのですね。

      • ファーストプライスオークション
        最も単純なオークション。この方式だと、先の「勝者の呪い」が発生する。
      • セカンドプライスオークション
        一番高い入札をした人が、二番目の人の入札金額で落札できる仕組み。
      • ダッチオークション
        高い価格からはじめて、どんどん価格をおとしていき、最初に声をかけた人が購入できる仕組み。

      なるほど確かにヤフオクを見てみると、セカンドプライスオークションに近い仕組みをシステム的に実装しているわけで、そういうことなのかー、と納得。なかなか面白い本なので、興味がある方は読んでみるといいかも?^^

      今日は耳も心も痛くなる一冊を~。

      20091107c

      ええっと、「35歳からのリアル」。本屋で見かけて心惹かれて購入してみたのですが。

      い、い、イタイ;;;。
      っていうか耳も心もイタすぎるよ;;、状態に;。

      内容を簡単にひとことでまとめると、自覚の薄い35歳前後の人たちに、過酷な現実を突き付けることで決断と行動を迫るという一冊。具体的には、仕事、家庭、生活、お金、活力という5つのカテゴリについて、今の世の中の状況や将来の見通しなどを、具体的かつ説得力のあるデータをもって淡々と突き付けてくる、というもの。

      この本の面白いところは、具体性や説得力もさることながら、今の35歳前後の人の心の甘えをバッサリと切り捨ててくるというところ。今後の人生にどれぐらいお金がかかるのか、という問題に対しては、お金を五計(生計、家計、身計、老計、死計)にわけて捉えて、それぞれいくらぐらいかかるかということを説明したり、結婚費用、子供の養育費用(これも「生かす」ための費用と「育てる」ための費用にわけて解説されている)、住居費用などがすべて事細かに書かれている。加えて、生活ランク(要するに年収・月収)に合わせた収入・支出の平均値を示したうえで、バッサリひとこと。

      貧乏の原因は分不相応な生活にある
      ……(中略)……
      ようするに、収入に見合った支出に管理できていれば、年収階級にかかわらず、お金は貯まるということ。「お金がない」「貯まらない」という人の原因は、さまざまであるにしても、収入に対して支出が多いということだけは間違いないのです。

      そしてそこを起点として、生活水準を1ランク下に落とせ、と続くような感じ。もちろんお金の話だけではなく、健康面の話や心の活力の話など多岐に渡っており、非常に勉強かつタメになる一冊であることは間違いがないです。

      # ……というより読んでて読んでてむちゃくちゃ暗くなる一冊;;。

      35歳……といわず、30代の人にはぜひ読んでもらいたい一冊。自分もそうですが、特に昨今の30台は実年齢に比して精神的にも幼いことが多く、かつ様々なことに対して自覚意識が足りないことが極めて多い。こういう本を読むと、否応なくそうした現実を突き付けられる。まあ、こうした本は概してホントに読むべき人ほど読まない本なのですが、非常によくまとまっている本なので、ぜひ読んでみてください。

      ふう~、というわけで昨日は夜遅くまで同僚 2 人とずーっと飲んで食って喋っていたのですが、お互いホントによく飲んで食って喋るなぁと苦笑い。会社の同僚の中でも気が合う二人なので、折に触れてよく話すのですが、その中で出てきた話がちょっと困った後輩社員の話。

      その同僚の担当しているシステム構築プロジェクトには、入社三年目の社員が入っているのですが、一般的に言えば入社三年目といえば、そこそこ仕事のこともわかってきて、仕事に対するプロ意識も目覚めてきてよいタイミング。がしかし、実態としては実力が足りないこともさることながら、なによりプロ意識や根性がまるでない。普通の人がやれば 1 時間もかからず終わりそうな WBS (作業項目リスト)の作成に 2 日間もかけていたり、ひどいものになると、宴会企画に関してもお客さんへの時間請求項目の中に入れていたりする;。さすがに見るに見かねて先輩社員からの指導が折に触れて入っているのですが、殊勝な態度を取る腰が低い子なので強くも言えず、なかなかうまくいかずにどうしたものかと先輩社員同士で相談している、という話だったのですね。

      ……がしかし、その話を聞いた私ともう一人の同僚が速攻でツッコミ。
      「いやその子、そんな殊勝な子じゃないから。」

      って、それを聞いた同僚は「ぇぇぇぇぇぇ」と驚きまくっていたのですが;、実はこの子、非常に困ったことに超内弁慶タイプ;。同期が集まったときの会話を聞くと、どんだけオレオレなんだとツッコミたくなるほどイタすぎる会話を繰り広げる。自己認識力(自分の置かれた立場や自分の実力を客観的に正確に把握する力)がまるでないんじゃないか、というほどの自信過剰なタイプ……なのですが、問題なのは、自分より目上の人に対してはそうした態度を一切出さないという点。それは彼自身のひとつの処世術で、そうすることによって目上の人からかわいがってもらえる(手助けしてもらえる)のですが、半面、本質的なところでは反省も改善も全くないので、当人はいつまでたってもまるで育たないのですよね。

      で、その同僚にアドバイスしたのが、「イネーブラになっちゃいけない」という話。

      イネーブラというのは、もともとアルコール中毒やギャンブル中毒などの依存症を起こす人の周辺によくいるタイプの人で、具体的な例としては、酒の不始末の尻拭いをする奥さんや、借金の肩代わりをしてしまう家族のこと。イネーブル(enable)というのは、「何かを可能にしてしまう」という意味なのですが、要するに、本来であれば当人がやらなければならない責任を肩代わりしてしまうことで、本人の自覚を妨げ、むしろ本人の問題行動を助長してしまう人のことを言うのですね。

      これは子供のしつけを考えてみると分かりやすくて、例えばおもちゃ売り場で子供が「おもちゃ買ってー」と泣き叫んでいるとき。こういうときに絶対にしちゃいけないことは、泣き叫ぶ子供をなだめるためにおもちゃを買い与えてしまうこと。それをしてしまうと、子供は「泣き叫べばおもちゃが買える」という勘違いをするようになって、さらに強く泣き叫ぶようになってしまうという悪循環を引き起こすのですね。こういうときにしなければいけないのは、毅然とした態度を示して、泣いたからといっておもちゃが買えるわけではないということを理解させること、なのですよね。

      こうしたイネーブラになりやすいのは、一見すると優しいけれども心が脆弱な、お父さんやお母さんタイプの人。かわいそうな人を見ると放っておけないタイプの人がこのワナに陥りやすいのですが、その背景には、かわいそうな人を見捨てる自分になりたくない、という心の弱さが潜んでいることが少なくない。でも実際には、どんなにかわいそうであっても、本人が解決しなくちゃいけない問題には、他人が絶対に手を出してはいけないのですよね。

      こういう話は、子供の例を出すとものすごく当たり前の話としてみんな「そうですよね」と納得するのですが、問題なのは最近、大人であってもこういう子供まがいみたいな人が増えているという点。周囲の人たちからそのことを指摘されると、この同僚のように「はっ」と気付く人も多いのですが、気付けないとこのワナにハマりやすいのですよね。

      # ……というか私も過去このワナにハマったことがあるのですが;。orz

      自覚を持っている人に対して適切なサポートをすることはものすごく大切なのですが、自覚を持っていない人に対してその人の責任を肩代わりすることは、こうした人たちを助長し、結果的にはそうした人の自覚を遠ざけることにつながってしまう。どんなにつらくても、毅然とした態度を取ることが結果的にはその人のためになることもある、という心の強さを持つことが大切。そのためには、何が or どこまでが先輩社員としての自分の責任で、何が or どこまでがその後輩社員の責任なのか、という責任分解点を明確にする必要がある。その線引きをきちんとするといいよー、という話をしてみたり。

      結果的にはいろいろ納得してくれたみたいでよかったのですが^^、もう一人の同僚いわく、「自分に(その後輩社員のような)イタい行動をする時期があったかなぁと思い返してみると、どこまで振り返ってみても接点がない」とか。これには思わず三人でうなづいてしまったのですが;、異文化であるがゆえに、きちんと意識的に対処する必要がある問題なのでしょうね。いやはや;。

      最近はアニメやゲームネタばっかりだったので、たまには真面目なエントリをひとつ。

      先日、会社の合宿があったのですが、その合宿のネタは、組織で新しく作られたビジョンとミッションについてみんなでディスカッションしよう、というもの。実はこのビジョンとミッションは、先月、私が入院している最中に、組織のトップから直接私のところにメールが来て、事前に「どう思う?」と質問されていたネタだったのですが;、なまじ中身を知っているだけに、自分はいったいどうディスカッションに参加すればいいのかと微妙に悩むワナ。orz まあ結局は、フラットな気持ちで臨むことにした(というより一カ月も前の話なので自分が考えたことを忘れられるw)のですが、議論の中で結構困ってしまったのは、そもそもビジョンやミッションがどのようなものであるべきか、ということに関して知らない人が多い、ということ。

      「組織にはビジョンが必要である」といったことが言われ始めたのは、今からだいたい 10 年ぐらい前のこと。元をたどれば、1994 年にスタンフォード大学の教授が著した経営書である「ビジョナリーカンパニー」という本で提唱された概念。そのキーポイントは、長期的に成長を続けることのできる会社には、ビジョンとでも呼ぶべき基本理念がある、というもの。そのビジョンは社員たちにとって進むべき羅針盤とでもなる未来像を示しており、経営戦略が変わっても、基本理念は永続的に変わっていない、ということを示したのですよね。

      がしかし、問題なのはこの後。2000 年に入ってから、日本でもこの「ビジョン」の重要性が謳われるようになり、ビジョンに関する研修なども多数出てきたのですが、原著を知らない人が「ビジョン」という言葉だけを使うようになると、イメージ先行でビジョンというものが語られるようになってくる。ビジョンとは「未来像」であり、「未来のなりたい自分の姿」だ、といった、字面だけの解釈が中心となってしまう。その結果、ビジョンの中に「3年後の売上を、現在の2倍にする」なんていう、ビジョンとは全くいえないようなものがビジョンステートメントとして定義される、というトンデモな状況になってしまったのですよね;。原著を読むとすぐにわかるのですが、このような売り上げ目標などは「ミッション」(=達成すべき経営目標)であって、基本理念となるようなものではない。基本理念は、言ってみれば従業員たちの心を束ねる信念であるべきもので、数年経ったらころころかわるようなものであってはならない(少なくとも数十年に渡って変化しないようなもの)のですよね。

      わかりやすくまとめると、

      • ビジョン(基本理念、信念)
        その企業に勤める従業員たちの、「心を束ねる」ような信念となるステートメント。それが理想であることを疑う余地なく共感でき、かつ、それが自分たちのレゾンデートル(存在理由)であると信じることができるようなものである必要がある。経営環境や世界情勢などが変化したとしても、数十年に渡って変わることのないものでなければならない。このため、「夢物語」的な側面もある。逆に、このビジョンの中には「具体的な方策」(メソドロジ)は通常含まれない。
        例 : 「優秀な人材を育て、世界一となる人材を輩出し続けることで、世の中をより幸せにする。」
      • ミッション(達成すべき経営目標)
        前述のビジョンを元に、自分たちが何をなすべきか、どんなことを達成すべきかを、具体的な目標として定義する。このため、このミッションの中には具体的な数値などが含まれることもあり、また数年ごとに見直されることもある。ただし、ビジョンとの整合性が極めて重要で、「人々を幸せにする」などとキレイゴトを言いつつ、「数年後に売り上げを 3 倍にする」といった利己的な経営目標を立てると、従業員の心を束ねることはできない。
        例 : 「毎年、優秀な講師を少なくとも5人ずつ採用し、東大模試のトップ1割に5人の生徒を食いこませる。」
      • ストラテジ(具体的な戦略)
        前述のミッションを、どのような方法で実現していくのかという戦略や方策を定義する。このストラテジは極力具体的なものであるべきで、かつ、実現可能なものでなければならない。
        例 : 「優秀な講師の抱え込みのために、毎年、年初の入学生に対して積極的なリクルーティングを行う。それと同時に、口コミで講師から優秀な講師を探してもらい、実際に優秀だった場合には一時金を与える。また、模試のトップに食い込むためには母数を増やすことが望ましく、そのために毎年生徒数を50人ずつ増やす。」

      といった感じ。ちなみにこのミッションは、つどつど見直されることが望ましく、例えばこの目標が達成された場合には、ターゲットを京大や医学部などに広げてもよい。けれどもこの場合であっても、ビジョン自体は永続的に変わることがない。このビジョンとミッションとストラテジの一貫性・整合性が、とても大切なのですよね。

      この辺のことは、ビジョナリーカンパニーという経営書の名著を読んでちょっと考えれば分かることなのですが、意外にこの手のビジネス書は読まれていない、という印象。経営者であれば当然ですが、そうでない普通のビジネスマンであっても、こうしたビジネス書はいろんなヒントや気づきを与えてくれるので、興味がある方は読んでみてもいいんじゃないかなー、と思う次第。……いやまあ、単に私がこの手のことをぐだぐだ考えるのが好きだから、というのもあるんですけどねぇ;;。

      というわけで、今日はこちらの書評をひとつ。

      20091019

      ええっと、「仕事で使える! Twitter 超入門」。Twitter というのは最近インターネットで流行っているコミュニケーションツール。実は私も最近使い始めたのですが、どんなものかというと、

      • 個々のユーザが 140 文字までの「つぶやき」を入力すると、ネット上にそれが蓄積されていく。
      • ある人のつぶやきを「フォロー」すると、自分のウィンドウにその人のつぶやきが表示されるようになる。

      イメージ的には、 blog とチャットを足して 2 で割ったようなもの。気軽に公開情報をエントリしていけるという意味では blog に近く、知人同士で気軽におしゃべり会話ログを残していけるという意味ではチャットに近い。最近では、mixi にも似たような機能として「マイミクボイス」という機能が実装されましたが、Twitter はこれとはちょっと違う。チャットログがオープンになっており、承認を必要とせずに、自由に他人のつぶやきをフォローすることができるという点がポイント。特に US では iPhone などのモバイル端末から気軽につぶやきログを書きこんでいくスタイルが流行っており、

      • blog に比べて、圧倒的に気軽に書き込みができる。
      • SNS と違って、クローズドな重たい人間関係を引き込まずに済む。

      という、ゆる~いコミュニケーションが可能なツールになっています。

      で、実は最近、この Twitter をマーケティングツールとして使おうという動きがあって、私も興味を惹かれて使い始めてみたのですが、これがどう使えばいいのかよく分からない。それでこの本を読んでみたのですが、なるほどいろいろと腑に落ちるところが。なぜつぶやきログを収集する Twitter がマーケティングツールになるのか? この Twitter というのは、個人のつぶやきを大量に集めることで、究極的には限りなくリアルタイム性の高い情報ソースを作り出す仕組みを持っているのですね。

      この本では、Web 2.0 以降のネットの潮流が二つあって、

      • クラウドコンピューティング
      • 超新鮮な Web

      だというのですが、後者が Twitter の持つ特異性。Google は、インデックス付けをすることで、過去の情報蓄積資産が、現在の情報資産と競合する仕組みを作り出したのですが、Google の技術(検索エンジンのクロール)では、「現在の超新鮮な情報」をインデックス化することには限界があるのですね。しかし Twitter は、個人の細かいつぶやきを大量にデータとして収集し、リアルタイムに集計していくことで、つぶやきの集積からリアルタイムに価値あるデータや情報を生み出すための仕組みとして機能するのですね。

      # イメージ的には、街中で友達とぶつぶつ「これ面白かったよねぇ」「美味しかったよねぇ」
      # とおしゃべりしている内容が、大量にデータベースに蓄積されていくというもの。
      # ひとつひとつのおしゃべりの内容はたわいがないように見えても、それが大量に集まると
      # 統計的に意味のあるデータが精製されて出てくることになる。しかも内容が「つぶやき」で
      # あるだけに、信憑性もそれなりに高くなる、というのもポイントになるのでしょうね。

      Google のキーワード検索を席巻する可能性のある検索の仕組みとして、この本では、セマンティック検索(自然言語検索)とリアルタイム検索の 2 つを挙げており、前者として bing、後者として Twitter を挙げているのですが、なるほどこういう枠組みで解説されると納得できるものがありますね。もちろん、Twitter の仕組みが有効に働くものは、極めてリアルタイム性の高いもの、すなわち扇動性の高いもの(簡単にいえば祭りになりやすいもの)に限定されると思うのですが、メディアの一つとして押さえておきたいものではありますね。

      ふう~、というわけで今日はちょろっと社外のパネルディスカッションにパネラーとして参戦。最近、この手のお仕事に誘われることがちまちまあって、今回もお誘いを受けたのでさくっと参加してきたり。がしかし、その一方でうーん、と悩んでしまうのはこういう仕事を受けていると現場感を失ってしまう、という点。

      仕事の内容にもよるのでしょうが、私の場合は仕事そのものが高度な専門職なので、現場の最前線で一生懸命頑張ることはとても大切。その一方で、市場形成のための啓蒙活動や、現場の方々を鼓舞するための講演会的な活動も欠かせない活動になってくるのですが、こういった活動に力を入れすぎると、プロフェッショナルとしての腕が鈍るのですよね;。

      今日、パネリストとしてつらつらと話していてヤバいなぁ、と思ったのは、一瞬、キーワード(略語)が出てこなかった瞬間があったこと。や、内容として何かは覚えていたので致命的ではなかったのですが、こういった活動ばかりしていると、現場感覚が鈍るのではないかと結構怖くなることがあるのですよね。

      啓蒙活動的なお仕事や講演会的な活動も、長期的な仕事を考える上で決して無視できないものではあるのですが、バランスを失わないようにすることが大切。ちょっと最近その手の仕事が多くなってきているので、自分的にも気をつけないとなぁ……と思ってしまった一瞬でした。うむむ。

      さてさて、私はこの blog 以外にお仕事用の blog を持っていて、そちらでもエントリを書いたりしているのですが、こうしたお仕事 blog を持っていると、たまにお仕事関係の質問メールが飛んでくることがあったりします。で、先日入ってきた質問はというと、ある Web サイトのネットワーク帯域が問題になりそうなのだけど、帯域を減らすために有効かつ効果的な方法を教えてください、という内容。

      ……いや、というかですね。
      そんな万能薬あるわけないじゃないですか;;、状態;;。

      というか、この手のメールを読むと、その瞬間に「あ゛ー」と思ってしまったりするのですが;、実は仕事をやっていると、意外とこういう質問を投げてくる人って多かったり。過去の経験からすると、解決すべきある課題について、

      • ○○という方法で解決したいんだけど、どうやればいいの?
      • その課題を解決するための効果的な解決策は何?

      という聞き方をしてくる人はヤバイ。何がヤバいのかというと、

      • 前者のパターンの人(目的と手段の混同型)
        問題の全体像が見えておらず、自分のアプローチが唯一無二のものであると思い込んでいることが多い。「いやそもそもそのアプローチを取る前に……」と話すと、キレることが多い。
      • 後者のパターンの人(銀の弾丸型)
        提供情報が不足しているにもかかわらず、一瞬で課題を解決してくれる「魔法の杖」「銀の弾丸」「万能薬」を期待している。このため、一発で満足できる答えが得られないと、「こいつはヤブ医者だ」と思い込んで去っていくことが多い。

      というわけで、接し方を間違えるとどちらもロクなことにならない。先々の仕事の関係を考えると無下にするわけにもいかず、細心の注意を払って、「○○だと思いますけれども(← とりあえず期待通りの答え)、こういう条件付きになりますので、こういうことも考える必要があるんじゃないでしょうか?」的な説明をする必要がある。結構、まわりくどいアプローチが必要になるのですよねぇ;。

      本来、相手に何かを尋ねるときには、素人なりの自分の感覚や考えを話した上で、プロフェッショナルとしての判断や suggestion を期待するのが正しいアプローチだと思うのですが、自分自身もプロだと思っている場合だと、上記のように聞き方がおかしなことになってしまうことがある;。端的にいえば、「謙虚な姿勢になること」が必要だと思うのですが、こういう話って、「された場合」にはわかりやすいけど、自分が「してしまう場合」って意外にわかりにくいもの、なのですよねぇ;。注意しないと、ですよ;;。

      というわけで今日はこちらの書評をひとつ^^。

      20090919j

      某氏からお薦めされた一冊、『それは、「うつ病」ではありません!』。なかなかいい本だよ~、ということでおすすめされて読んでみたのですが、ああなるほど確かにこれは分かりやすくていい本だなぁと思ったり。

      要点をひとことで言えば、「うつ病」と「うつ症状」は違う、ということ。うつ病とは、簡単に言えば心のエネルギーが完全に切れている状態で、何事に対しても無気力になってしまう状態。これに対して、うつ症状というのは気分障害の一種であって、他のさまざまな精神疾患の中で現れる症状である、というもの。ここの部分をきっちり区別しないと、本当に救うべきうつ病の人を適切に救えない、というのが本書の主張。なるほどこれは分かりやすいなぁと感心してしまったり。

      例えば、本書の中で取り上げられていた、「うつ病」と勘違いされやすい二つの症例として挙げられていた、「境界性パーソナリティ障害」(ボーダーラインパーソナリティ障害、略称「ボダ」)と、「統合失調型パーソナリティ障害」(昔で言うところの分裂病、略称「シゾ」)。これらはうつ症状を示すことはあっても、うつ病とは異なるものであるため、うつ病に対して有効な投薬は逆効果になることがあるし、また周囲の対応も、通常のうつ病の人と同様な対応ではいけないケースがある。しかし、一般の人にはそうした知識がなく、うつ症状とうつ病の区別がつかない人も多い。しかも患者によっては、「うつ症状」であることを錦の旗のごとくふりかざすケースもある。(※ 本来うつ病の人は、振りかざす気力も起きない) こうしたことに警鐘を鳴らしている一冊なのですよね。

      # 参考までに、「境界性パーソナリティ障害」はものすごく簡単に言うと「極度のわがまま病」。
      # 「統合失調型パーソナリティ障害」はものすごく簡単に言うと「謎の電波を受信しちゃってる病」。
      # どちらもうつ病とは全く違うものなのですが、ちゃんとした本格的な対応は専門家に任せるに
      # しても、ある程度の知識を持っておくことは、「自分の身を守る」上で重要なんですよねぇ。

      精神病というある意味非常にナイーブな内容を、バッサリと論理的に切って分かりやすく説明しているため、そんな乱暴な主張はひどすぎる、といった話も一部にはあるようなのですが、誤解を恐れず、これぐらい分かりやすくバッサリとやってしまった方がいいんじゃないか、と思うところもあったり。「こういうケースもある」「ああいうケースもある」と言うことは簡単なのですが、ざっくり 70 点ぐらいが取れる説明をまず先にする、ということも大切だと思うのですよね。巻末には、「うつ病ではない」ことと「助けが必要」なこととは別の話である、という主張があったのですが、ある意味、「うつ病」というものが神格化されつつある現代においては、こうした警鐘はものすごく重要なんだよなぁ、と思います。かなりおすすめできる一冊なので、興味がある方は読んでみるとよいと思います。

      いやはや今日は参りました……orz というわけで今日はぐったりな話をひとつ。

      今日は会社の飲み会で某お店を襲撃。や、会社の人の部署異動の壮行会だったのですが、困ったことに会議の延長などもあって集まりが異様に悪い;。もともと 15 席程度しかない小さなお店(割と人気なお店)に 8 人で予約を取ったのですが、30 分経っても半分しか集まらないワナ;。予約の前に入っていたお客さんたちをわざわざ帰して席を空けてくれただけに、お店のご主人がいらついた声で「いつになったら来るんですか?」といらいらし出してしまったり。あちゃ~、という感じですが、まあここまではよくある話。

      がしかし、一緒に来ていたマネージャ(← 幸いにも私のマネージャではなかったんですが;)が突如とんでもないことを言いだすワナ;。

      「いったいいつ何人来るんです? 1 人だけ 30 分ぐらい遅れるって聞いてたんですけど。」
      「ちょっとミーティングとかで遅れて後から来るんで先に始めたいんですけど。」
      「いや集まってから始めましょう、バラで進めると大変だから」 ← 意図は料理を出すタイミングがずれるため
      「でもいつ来るか分からないんで始めてほしいんですよ」 ← この辺からお前なに言い出してやがるんですか状態;
      「ホントにちゃんと集まるんですよね? 見てわかると思うけどうちは狭いんでこういうの困るんですよ。」
      「来なかったらその分我々が多く食べるからそれでいいでしょ。」
      「いやそういう問題じゃないでしょ。」
      「じゃどうしろっていうんですか? 帰れっていうんですか?」

      ってさすがに横で聞いていた私も口を開けてしまうワナ;;。や、自分より立場が上であることに臆してしまってこのマネージャさんを止められなかった私にも非はあるのですが、どんだけ逆切れしてるんですかこの人状態;。お店のご主人もこのセリフにぶちっと来たために、それ以降はもうまるで我々のグループには目線すら合わせようとしない;;。それでも「帰れ」と言わなかっただけ辛抱強かったとは思いましたが、まあうちのグループに対する接客は全身から怒りがあふれ出んばかりのもの。後から来た人たちはそんな態度の悪すぎる店長に怒りまくり状態;。もちろんその原因が自分たちが遅れたりマネージャの暴言のせいであったりしたことに気付いていないわけで、笑顔で話しているものの内心ではハラワタ煮えたぎり。やーー、もういったいどうしろと状態に陥るワナ(涙)。

      # 挙句の果てに、お店を出た後、事情を知らない人たちが「味は美味いけどお店の人態度悪すぎ」と
      # 怒りまくり;。当のマネージャは絶対に謝ろうとしないし、まったくもう;;;、状態;;。

      そもそもの失敗は、お店を紹介したのは私だったのに、予約やお店との調整を自分でしなかった点(他の人にお願いしてしまった)。この辺、自分がリードしていればこの最悪の状況は回避できただろうとは思うのですが;、それ以上に今回の失敗で考えさせられたのは、ああこういう人たちはこういうお店に連れていっちゃダメなんだ、ということ。このお店、この blog でもエントリを書いたことのある、割と小さなお店だったのですが、気さくで愉快な店長とのコミュニケーションも含めての一軒、なのですよね。ところがそもそもお客様は神様としてもてなされて当然、みたいな勘違いをしている輩も当然いる。

      今回の場合、お店を出た後に店員の態度が悪すぎだと悪態つきまくりな人たちがかなりいたのですが、いやいやそれを招いたのは最初の自分たちが悪かったんですよ、と話すと、「そりゃお店の人も怒りますよね」という人と、「いやそうはいっても客なんだからもてなすのが当然だろう」という人に分かれたのですよね。お客様は神様だと言うけれども、神様にだって最低限守るべき礼儀は当然ある。お金はサービスへの対価として支払うのであって、礼節を守るのは全く別の次元の話。いい歳いい立場なのに、そんなことすらもわからないような人がいた、というのにもびっくりというか呆れるのですが、そういう人たちをこの手の店に連れていってしまった自分に頭を抱えてしまったり;。いやはやホントにミスった……

      # 幸いだったのは、お店を出るときにご主人にお詫びして多少は仲直りできたところ;。
      # あいつだけは絶対に二度と連れてこないでくれ、と言われましたが、いやー、私ももう二度と
      # この人と一緒に食事しようと思わないですよ....;

      いろんな意味でぐったりしてしまった一件でしたが、まさかこのマネージャがこういう態度に出るとは、という意味で人を見る目がなかったなぁと反省;。ハマるとホントに気分よく美味しい料理が楽しめる素晴らしいお店なのですが、リスクを避けるという意味でも、やっぱりこういう人を選びそうなお店に安易に人を連れて行ってはいけないものですねぇ……いい勉強になりました;。反省。orz

      ふう~、というわけで今日は微妙に愚痴っぽい話をひとつ。

      今の会社の組織に、あれこれと他人に口やかましく言うちょっと困った人がいるのですが、対応していて果たしてこれはどうしたらいいもんかなー;、と迷っていたり。無下に扱えば、それをタテにとって悪い噂をバラまかれることもあるだろうし、適切な対応で切り返すのにもそれ相応の労力が必要になる。ありていに言えば「そんなこと百も承知だから黙っててください;」状態なのですが;、本人としては善意のつもりだからタチが悪い;。

      しかし、私的にどうにも理解できなかったのが、そもそもなんでこんなおせっかいおばさんみたいなことをし続けないと気が済まないのか、という点。いや、基本的に、わたしはわたし、あなたはあなた、なわけで、適切なアドバイスはともかく、度を超えたお節介は、思い通りにならない相手に対するフラストレーションと、あれこれ言われるフラストレーションで、お互いを不幸にするだけ。そんな当たり前のことになんで気付かないのかなぁと非常に不思議でならなかったのですが、先日はたと気付いたり。

      あ゛ー、なるほど、要はこの人は、他人から見下されたりあれこれ言われたりするのがイヤだからそういうことをするのか、と。

      誰かに何かを指摘するときは、どうしても少なからず目上のポジションからの指摘になる。だからこそ普通は、相手が受け止めやすいように、目上のポジションにならないように(=受け止めてもらいやすくなるように)注意しながら発言するものだし、また受け止めてもらえなくても「まあ仕方ないか;」と諦めるわけなのですが、でも、自分から他人に対して「あーしろ、こーしろ」と言い続けていれば、自分が常に相手に対して目上のポジションに立つことができるのですよね。

      でもそれは、言ってみれば、脆弱な自分を守るための防衛行動のようなもの。本来、対等な人間関係であれば、自分が敢えて相手の目上に立つ必要性はないわけで、そうし続けないと自分を守ることができないのは、それ相応に何かがあるんだろうなぁ……と思ってしまったり。

      考えてみれば、この「脆弱な自我を守るための防衛行動」というのは、我々の日々の行動の中にも少なからずよく見受けられるんですよね。他人に対して必要以上に過干渉になってしまったり、無意識のうちに他人を見下す発言をしてしまったり。冷静に考えてみれば、いや自分自身にだって当てはまるだろう、みたいなことを無意識のうちに言ってしまっていることもあって非常に危険;、なのですが、それは裏を返して解釈すると、「自分」が強すぎたり(=脆かったり)、あるいは弱かったりするための防衛行動なんじゃないかなと思える瞬間があるのですよねぇ。

      結局のところ、相手を無意識に見下した発言をしてない? と、自分の行動をなるべく客観的に見つめ直してみることが大切になると思うのですが、まあ言うは易し行うは難し、の典型例のようなものなので、なかなか頑張らないと厳しいところ、ではありますねぇ;。反省;。

      というわけで今日はまったり家でテレビを見ていたのですが、先週の歴史的政権交代から一週間、ということでテレビもその手の特集番組が結構多い。中には比例区で2日前に知人経由で出馬を依頼されて当選してしまったフリーターさん、みたいな話もあって、おいおいさすがに大丈夫か?? と言いたくなってしまったり(苦笑)。今回の場合、民主党が勝利した、というよりも自民党が自沈した、というのが実態なんでしょうが、政権交代しても結果はあんまり変わらないんじゃないかなぁ、と微妙に暗くなってしまったりもしますね;。

      でもって、先週のエントリに Web 拍手が入っていたのでご紹介。

      > いつも楽しく見させていただいています。まちばりさんが国債=借金とお考えに
      > なっているように思われ、それは違うと思ったため自分の意見を言わせて貰います。
      > 日本国債の買い手ってほぼ全てが日本の金融機関、その大元をたどれば我々の預金です。
      > なので我々の金を政府に貸しているわけです。よって国債とは国民の借金でも
      > なんでもなくて国民の政府に対する債権・資産なわけです。なので借金借金と心配する
      > 必要は無いと思うのですが。とりあえず私が勉強させてもらった人の記事を載せて
      > おきますので興味があれば見てください。
      > http://www.gci-klug.jp/mitsuhashi/2009/08/04/006332.php

      日本の国債の大半が金融機関(=日本人の預金=我々の資産)によって買い支えられている、という事実は私も知っていたのですが、なるほどモノの見方として、我々が資金貸付を政府に行っていて、政府がそれを運用している、という考え方はわかりやすい。第三者(例えばハゲタカファンド)が資金貸付した企業はお金を吸い取られてボロボロにされるわけで、それに比べて従業員が自社株を保有しているモデルは非常に健全だ、という理屈は確かに一理あるかもしれませんね。

      ただ、資金調達の健全性と、資産運用の健全性とは話が別、ではないかな~、と思います。日本の場合、果たして資金運用が健全なのかというと、ここのところは激しく微妙、だと思うのですよね;。景気・雇用対策としての公共投資のバランスなどもそうですが、やはり正直なところ公共系の仕事って、日常的な感覚としてもバラマキ感が強いのですよね。会社の中を見ても、法人部門 < 金融部門 < 公共部門、という大小関係が成り立っていることが多い。ムダな部分は適度にシェイプアップして資産運用の最適化を図ることは絶対に必須なわけなので、そこはそこでちゃんとやってほしいな、というのが正直なところ。

      まあ、一般企業の昨今の引き締め方は尋常ではない、という気もするので、むしろ公共事業の方が適切なバランスが取れているのかもしれませんが、いずれにしても自社の社員からお金を巻き上げて無駄遣いするような会社が健全と言えるはずはないので、その辺はしっかりしてほしいなぁ、と思ったりします。

      今、使っている某アイテムがさすがにボロくなってきたなー、という感じなのでぼちぼち注文しようかな、と思って楽天を検索していたときの話。まあそのアイテムなんてどの店でも山ほど売られているので適当に購入すりゃ済む話なのですが、「うーん」と唸ってしまったのがお店のこと。

      や、たまたま安くてよさげなものがあったので、注文しようかと思ったのですが、実はそのお店、つい先日、お仕事の提案で行ったことがあるところだったのですよね;。それで普通に提案をしてみた(実際には私が提案したのではなくて私は提案支援だけだった)のですが、これがまあびっくりするほど失礼な門前払いを食らったのですよね;。提案持ってきて、と言われて、持っていってご検討ください、と話して後日いかがですか? とうちの営業が ping してみたら、

      「当日お話しした通りです。あんな提案では話題にものぼりません。」

      と 1 行だけ冷たいメールが返ってくるワナ;。おいおいさすがにそれは大人の常識的に失礼すぎるだろう、とツッコミ入れまくりだったのですが、今回、ちょろっと注文するときに「う゛ーん」と一瞬、考え込んでしまったのですよねぇ。

      や、まあ冷静に考えれば、別にたまたま当たったその人が失礼だっただけで、社員全員がそんな失礼な人たちばっかりなことはないはずなので、そんな程度のことで会社全体を敵認定するのも大人げなさすぎ。そんなわけで結局のところは注文したのですが、でも実際、大きな会社になればなるほど、誰か一人が大人げない失礼な行動を取ると、会社全体のイメージがものすごく毀損するんだよなぁ、と改めて思ってしまったり。

      大きな企業になればなるほど、「寄らば大樹の陰」的な大企業病が蔓延してくるものですが、一方で、その考え方こそが大企業にとってのリスクになるわけで、いやはややっぱり怖いものだな、と思わずにはいられなかったり。どんな社員も会社の顔。常日頃から、会社の看板を背負っている、っていうことを意識する必要があるのかも……という気がしますね^^。

      ふう~、というわけで今日は昨日までの疲れを取るために会社はお休み。とはいえこういう日はやっぱり貴重なので、まずはお部屋のお片づけをつらつらと。

      20090817

      ……っていうかいいかげんコミックスを処分しないと次のコミックスの置場がない;、という極めて後ろ向きな理由なんですがorz。そんなわけで、今日は Web 拍手ツッコミからネタを一つ~。

      > まちばりさんの勤められている会社ってレベルの高そうな会社に感じられますけど、
      > そのようなランクの高い会社の入社試験を突破した人材でも能力・精神的に未熟で
      > あったりムラがあったり欠点があったりするものでしょうか?

      えーと、これは以前に書いた、「甘え」の構図というエントリへの Web 拍手ツッコミだったのですが、非常に面白いネタなのでさくっとリプライしてみたり。

      まず、私が勤めている会社がレベルが高いかどうか……はなんとも言えませんが(多分、世間一般の評価としては「めちゃめちゃ高い」だと思いますが;)、実はそのことよりも遥かに重要なことがあります。それは、

      「人間を一か所に集めると、どんな逸材ばかりを集めてもその中で再編成が発生する。」

      という話。これは最初に聞いたときに「なるほどなぁ」と思ったのですが、簡単に例を挙げて説明すると、「どんなに入学試験で優秀な生徒ばかりを集めても、卒業するときには落ちこぼれる人もいる」という話。例えば、A という大学と B という大学があって、偏差値ランキング上は A の方が上。で、A という大学に落ちた人がやむなく行くのが B の大学……だったとするとどうなるか? 入学当初は A の生徒の方が B の生徒より必ず上かもしれませんが、卒業する頃になると、むしろ B の大学で頑張っている人たちの方が凄いことになっていたりすることも少なくないのですよね。

      こうした事情から、一部の企業では「大学名」で取るのではなくて、「各大学から上位の生徒を数名ずつ採用する」といったポリシーを取っていたりすることもあります。また私の会社の場合には、人事上、各組織のトップ 5%とボトム 5%(だったかな?)を洗いだして、上位の社員については「辞めさせないためのプラン」を、そして下位の社員については「別の道を模索するプラン」が作られる……とかいう恐ろしい話が;;。

      どんなにレベルの高い会社や大学に入ったとしても、それは「その時点のスナップショットとしての成績」であって、それから数年も経てば、全くレベル感は変わってしまう。実際、各企業の中で責任を任され、トップを走っているような人たちには必ず特有の輝きがあるもの、だと思うのです。それは(語弊はありますが)企業のサイズやレベルによらないし、「一流企業」と呼ばれる会社にいる人でも、あなたが偉いんじゃなくて会社が凄いだけなんだよ、と言いたくなることはしばしばある、と私は思うのですよね。

      結局、大切なのは「ある時点における成績」なのではなくて、「常に上向きで実力を向上させていくことができるかどうか」という点。もちろん、「挫けること」もあるとは思うのですが、自分の地位にあぐらをかかないように精進すること、がものすごく重要なんだと思います。

      いやー、ちょっと面白いデータを見つけてしまったり^^。

      これ、今年の新卒社員 約 3,000 人を対象に行った、仕事のモチベーションに関する調査研究報告資料。まあ要するに、最近の若い子たちはどんな意識で働いてるの? という調査結果なのですが、サマライズされたポイントが面白い。

      1. 【入社動機】2008年より更に、「保守・安定志向」が高まっている。
      2. 【上司・先輩への期待】自分自身への興味・関心を求める傾向が更に強まっている。
      3. 【職場への期待】活発な議論やスムーズな連携ができる職場の一体感を求める。

      細かいデータはぜひ原文の方を見ていただきたいのですが、原文の方では言葉を慎重に選んで書いているものの、ひとことでまとめれば「ボクたちにかまってください・ボクたちを甘やかしてください」ということになる;。

      正直なところ、この手の調査や分析については、いくらでもバイアスをかけることができるので、果たしてどの程度依存心が強いのか、という点については簡単に議論できるものではないでしょう(この資料も過去との比較を元にしたトレンドをかたっているだけですし)。ただ、確かに結果を見る限り、上位に入ってきているポイントの多くは、自分が頑張ることよりも、「寄らば大樹の陰」とか「受け身姿勢」的な印象を受けるのも事実。

      昨今の新卒の子たちと話していてびっくりするのは、とにかく打たれ弱いということ。原因はまあいろいろあるのでしょうが、良くも悪くも挫折経験が少なく、挫折しそうになると、自分を改変するのではなく現実を改変してしまう(=そのことをなかったことにしてしまったり言い訳をして周囲や環境のせいにしてしまう)人が多いな、という印象はあります。まー確かに、今の世の中は国民総ボダ化とか言われてたりもしますが;、実際のところ困ってしまうのは、そういう人たちとの接し方。どこまでを認めてあげて、とこからを罰するのか、という線引き(境界線)をきっちりさせておかないと、なかなかいい方向に転ばなかったりするのですよね。

      正直怖いのは、そういう人たちが徒党を組んで多勢に無勢になること、なのですが、これを避けるためには、ちゃんとリファレンスになるような人を一人でもいいから作ること、なんじゃないかなぁと思ったり。身近に成功事例があると、そういう人に感化されて頑張ろう、という意識を持つ人も出てくるもの。結局のところは、信賞必罰をきちんと行うことが、組織の健全性を保つために重要で、おっかなびっくり新人君に接すること自体が、結局はもっとも新人君たちのためにならないこと、なんですよね。

      結局、甘えの構図が強い新人君たちが入ってくるということは、とりもなおさず、本来であれば学校や家庭で学ぶべきであったことを会社で学んでもらう必要があるということ。親が子を育てるときには、信賞必罰といったブレない軸がどうしても必要になるものだろうと思いますが、会社の上下関係においてもそういうものが求められるようになってきているのかもしれませんね。ううむ。

      ね~む~い~;。
      や、今週は仕事が忙しくて朝昼反転に近い一週間……;。まあこんなときもあるとは思うのですが、昨晩は倒れるように & 泥のように寝込んでしまったり。でもまだまだ回復しない……今晩はゆっくり寝よう><。

      というわけで先日の話。うちの部の本部長に久しぶりに昼食に誘われて、だらだらとおしゃべりしながら食事をしていたのですが、帰り際にひとこと。

      「あ、正式な辞令はまた改めてあるけど、今度昇進することになってるんで。これからもがんばってね。」

      って、ちょ;;;。まさか今年に昇進があるとは思ってなくて微妙にげっそり;。や、普通のサラリーマン的には喜ぶべきシチュエーションなんですが、自分的にはちょっとワークライフバランスが崩れ気味だなぁと思っていただけに、これ以上働かせやがりますか;、とツッコミたくなるワナ;。

      確かに客観的に見れば、それなりの成果も出しているし、ここ最近(3 年ぐらい?)久しく昇級してなかったのでまあいい頃合いといえばその通り……なんですが、自分的にはサラリーマン的な限界も感じてたりするのですよね。や、それはサラリーマンがイヤとかいうわけでもないし、仕事も嫌いじゃない……というよりむしろ好き。けれども、数年前から、仕事をバリバリやって、給料もたっぷりもらって、世界を馳せる仕事をするようになったからといって、それがそんなに面白いんかなぁ……と。いやまあそこにはそれなりに面白い世界もある……のだとは思うのですが、果たして自分が「なりたい自分」はそんなふうに仕事がバリバリできる自分だったのか? そう考えると、その点についてははっきりと No と言えるんですよねぇ。

      私は、「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」なんてことは絶対に言いたくない。やっぱり仕事も何も、それなりの高みに登ってみないと分からないことは山ほどある、と思っているので、まずはちゃんと仕事をすることはやっぱり大切……だと思うのです。そういうところを経由することで、改めて自分が本当に大切にしたいものが分かってくる。けれども、だからといってそれがなりたい自分なのかというと、それは全く別の話。だから、これ以上仕事に対して追加のリソースを割くのはやめて、もっと別のことにいろいろ手を出してみよう、もう昇進なんてしなくていいから、もっと人間としての幅を広げていきたいなぁ、などという甘い希望を元に(?)ここ数年やってきてみた……わけなのですが、いやまあさすがに会社もそんなに甘くはなかったですか、状態;。

      などとまあつらつらと考えていたのですが、ある瞬間にはたと思考が止まるワナ。
      ……う゛、実は自分、甘えてね?;orz

      というのも、ふと考えてみると、自分の幅を広げるためだったら会社の方については多少力を抜いても構わない、的な発想じゃんこれ、と思い至ったわけですが、いやいやそーじゃねーだろ、と思い返すワナ。時間を投入しなくても仕事の質を高めるというのが本来あるべきアプローチで、あ゛ー、知らず知らずのうちにラクをしようとしている自分がいるなぁと改めて思ってしまったり。いかんいかん;。

      昨日よりも今日、今日よりも明日。ちょっとずつでいいから進歩を続けることが大切。や、もちろん、70 とか 80 とかになって隠居生活になったら考え方を変えてもいいのでしょうけれども、いやいや自分はまだまだ普通に現役だろう、と思ったり。生涯現役、と言い切れるだけの自信は私には全くないですが;、せっかくの一度限りの人生を思いっきり生きるためには、中途半端にラクしちゃダメなんだよなぁと改めて思ったり。いや、もちろんたまには気分転換でラクすることも大切なのですが、それはそれ、これはこれ。

      次のチャレンジは何にするかなぁと思ってここ最近なんとなく気持ちがうろうろしている自分。なかなか新しい取り組みを見つけるっていうのは難しいものですが、ちょっとでも何か新しいことを始めないと、気持ちが停滞してしまうものなのかもしれませんね。なにはともあれ頑張って楽しまないとー、ですよ、ええ^^。

      そんなわけで。

      20090731

      まだまだ普通に現役ですが何か?(ぇ゛
      や、最近エントリはぜんぜん書いてないんですけどね~、でもちゃんとプレイは続けてマスヨ?

      というわけで、でじくま氏におすすめされてこちらの映画をさくっと鑑賞。

      20090712

      「精神」という映画。現在、東京では渋谷のシアター・イメージフォーラムという映画館でのみ単館上映されている作品なのですが、従来日本ではタブー視されていた精神科に焦点を当て、こころの病と向き合う人々がおりなす悲喜こもごものドラマを、ドキュメンタリーとして描き出した作品。驚くのは、医師のみならず患者さんまでもがモザイク一切なしで登場していること、そしてコメンタリーなどの一切がなく、あくまで淡々と、医師と患者さんたち、そしてそれに関わる回りの人々の日常をフィルムに描き出しているという点。監督いわく、「観察映画」だそうで、「言いたいこと=メッセージも、明確な結論もない」、とのことですが(とはいえ構成や編集でそれなりに考えはにじみ出てしまうようにも思いますが)、いずれにしても、観客一人一人が様々な想いや考えを馳せることができるように構成されているフィルム、だったりします。

      さて、はたしてこのフィルムに対してどうコメントすべきか……というのは正直迷うところで;、ノンフィクションであるだけに、多くの blog では自分の意見についてはコメントを控えている様子;。内容的にも非常にナイーブなことなので、書くべきか迷ったのですが、敢えてコメントしてみようと思います。気分を害される方もいるかと思いますので、その辺をご承知置きして読める方だけどうぞ。(文字も反転しておきたいと思います。)

      まず、鑑賞直後の正直な感想を言うと、あのラストの構成はあんまりだ;、と思いました。監督は「観察映画」、つまり言いたい事もメッセージもない、と言っているけれども、あのラストでは悪印象ばかりが際立ってしまうじゃないか、と思ってしまったり。読後感の悪さはまるでエヴァ旧劇場版。意図があったかどうかはわかりませんが、少なからず作為的なものを感じずにはいられませんでした。

      と、これだけだと意味不明なので、もう少し詳しく書いてみようと思います。

      この作品を先に見た人たちからの応援メッセージの中には、「精神病患者と健常者の境がわからない」「一体誰が健常者なのか」といったコメントが結構ありました。おそらくこのコメントこそが、この作品の本質(というか物事の本質)を捉えているのではないか、と思うのですよね。

      特に精神病関連の障碍の中には、健常者と障碍者の「境界」がはっきりしない・分かりにくいというものが結構あります。例えば、一般に障碍者と呼ばれている方々は、「普通の人」が備えているべき機能を備えていないことを以て障碍者と呼ばれているわけですが、ではこの「普通の人」とはいったい何なのか? 簡単に言えば、それは「人類全体に対する統計分布を作ったときに、中央付近にいる人たち」のこと。けれども「統計分布的な広がり」というものを考えてみると、そもそも「健常者」と「障碍者」の「境界」というのは、人間が恣意的に定義・設定したものにすぎないのですよね。

      作中で、ある患者さんが、「欠点のない人などいない」「全人的な人(=知・情・意の完全に調和した円満な人格者)なんて人もどこにもいない」とおっしゃっていたのですが、実際その通り。人は誰しもが、平均値(中央点)からの「ずれ」(偏差)を持っている。もしその「ずれ」を欠点だというのであれば、欠点がない人なんてどこにもいない。ただ、その偏差が大きすぎると、「群れたがる」傾向を持つ人間の中で生きていくのは難しくなる。特に日本では、文化的に「みんなと同じであること」(=平均値に近いこと)を良しとする傾向があるので、偏差が大きい人というのは、どうしても生きづらくなるのですよね。

      でも、そうした「偏差」を、「欠点」「障碍」と捉えずに、その人の「個性」「特性」と捉え、それをうまく生かせると、物事の結果は全くといっていいほど変わってくる。例えば、天才的な業績を残したニュートンやアインシュタインは高機能自閉症(アスペルガー)だと言われているし、数々の傑作を遺した太宰治や尾崎豊などは境界性パーソナリティ障害(ボーダー)だと言われている。それはなぜか? アスペルガーの人は、自分の興味のある分野に極端に埋没する傾向があるため、確かに極度に KY だけれども、その半面、その分野では驚くべき才能や知能を開花させることがある。あるいはボーダーは、極端に感受性が強すぎるために、自分も周囲もその感情で振り回してしまうことがあるけれども、その半面、驚くべき豊かな感性を以て周囲の人を感動させる作品を作り出すこともある。

      こうした結果は、いずれも「みんなと違うこと」(=偏差)を、マイナスからプラスに転じたことによって、「みんなにはできないこと」を見事に成し遂げた例だと思うのですよね。実際、作品中でも、患者さんたちが、素晴らしい詩や俳句を読み上げていて、類稀なる感受性の高さと豊かな感性を見事に活かしている姿が描かれている。そうした姿を見て、「自分にはとても真似できない」と思った方も多いでしょう。(少なくとも私には無理;だし、そういう感性を持っている人を羨ましく思うところもあります。)

      こうした「マイナス」(偏差=欠点)を、「プラス」(偏差=特長)に転じることは、誰だって大なり小なり似たようなことをしているはず。例えば、私は小さい頃から運動が大の苦手だったわけですが、そんな人はどうすればいいのか? ① 努力して体力をつけて苦手を克服するか、② 運動があまり問われない別の分野で別の才能を開花させるか、③ そもそも運動が苦手であることを逆手に取って何かを成功させるか、などの解決を図るはず。自分に与えられた環境、持っている特性、持っていない特性などを、『自分自身』の問題や課題として捉え、それを前提条件として受け入れて生きていくこと。それは、人間ひとりひとりに与えられた宿命とでも言うべきものだと思うのです。

      ただ、それは一人ではなかなかできない、ということも多くて、回りのサポートや手助けが必要になることもある。そしてその「必要とする」サポートの度合いは、偏差の大きさによって変わってくるのではないか、と思うのですよね(=普通の人でも欠点を長所に変えていくことは難しいが、大きな心の病を患う人は事の他に難しい)。

      この点において、今回の作品で取材されている「こらーる岡山」の取り組みは素晴らしく、心の病を患った人たちを単に患者さんたちとして扱うのではなく、牛乳配達や食事サービスなどを行う事業を同時に営むことで、組織的に地域社会で暮らせるように、つまり患者さんたちの自立を支援するような組織的なアプローチを取っている。(こういう総合的な取り組みをしている診療所が日本にある、ということを知ることができただけでも、この作品を見る価値があったと思いました)

      ところがこの作品は、フィルムの最後の最後で非常に大きな難題を突きつけてくる。
      それは、「サポートとは何か?」という問題

      作品の最後では、患者さんの一人が交渉のために市役所(?)と電話をするのですが、閉館時間を迎えた事務所に居座って、その電話に没頭してしまう。閉館の施錠をするスタッフが退出を促しても、それにろくに取り合うこともなく電話に没頭し、挙句の果てには煙草まで吸い出す。何度目かの注意にようやく電話を切ったと思えば、スクーターに乗って信号無視して交差点を突っ切っていき、そして終劇。

      この1シーンだけ切り出してみれば、「どうしてあそこまで空気が読めないのか分からない」「どう見ても自分勝手でわがまま」といった感想になるかもしれないし、優しい人なら、そうせずにはいられない患者さんの心の病に共感するかもしれない。いずれにせよ、終劇の後に残った、劇場の何とも言えないどんよりとした空気は、どう表現したらよいのかわからない観客の戸惑いに満ちていたように感じられるのですが、ではこれを果たしてどう考えたらよいのか?

      この患者さんがどのような病を抱えているのかは専門家ではないのでわかりませんが、昔に読んだエントリで、あらゆるパーソナリティ障害に共通するのは、(方向性は様々だけど)自分に対する強いこだわりである、と説明しているものがありました。簡単に言えば、自分のことで手いっぱいになって、他人のことまで十分に気が回らず、他人に迷惑をかけてしまう、というもの。この患者さんの場合も、おそらくは自分の電話のことで頭がいっぱいになってしまって、回りのことまで気が回らなくなり、結果的に、閉館出来ずに帰れなくなっているスタッフの迷惑のことに気づけない。そんな雰囲気に見えました。

      本人の心の苦しみに共感すれば、そういう行動を取ってしまうのもある程度やむなし、と許容することもできるかもしれないし、下手に退出を強制して刺激をすれば、どんなに正論であっても反発を買う恐れもあるから敢えて何も言わない、ということになるかもしれない。結果的にこのスタッフは無理に退出させることをせず、我慢を重ねて、当人が自分から帰ることをじっと待っていたのですが、最後にはお詫びの一言もなくけろっと帰っていく姿は果たしていかがなものなのか? あるいはそれを許してしまってよいのか? それは結果的には、当人の甘えを助長しているだけでは? ……などと考えていくと、そこには非常に根深い問題が横たわっている、と思うのです。(実際、作中では、家事をうまくこなせない患者さんに少しでも家事をこなせるようにサポートするスタッフの姿にスポットも当てられていました。これは、当人の甘えを助長することなく、本人の自立を促すための取り組みと言えるでしょう。)

      つまり、心の病を持つ人たちの苦しみや辛さを共感し慮り、その偏差をマイナスからプラスに転じていくためのサポートをすることは大切。けれども、だからといって本人たちのわがまま(=他人の気持ちを慮れないこと)を助長してはいけない。そのバランスや線引きは、実際には恐ろしく難しいのではないか、と思うのです。

      例えが適切かどうかは分かりませんが、例えば昨今、運動が苦手な子供のために、運動会のかけっこで順位を付けるのをやめよう、という動きがあると聞きます。けれどもこれは本当に子供たちのためになるのかどうか? 「運動が苦手」な子供にとって、「運動が苦手」だということをどう克服していくのかは、その子が解決していかなければいけない(内面的な)課題。なのに、それを他の人間が外から解決しようとする(=回りが変わることによって解決を図ってしまう)と、むしろ本人の自立を阻害してしまうことになってしまう。

      こういう視点で見た場合、あのスタッフの行動は、果たして適切だったのか、そうではなかったのか? どのタイミングで、どうやって本人に伝えるのが、最も適切なサポートなのか? そう考えると、これって恐ろしく深い問題ではないか? と。

      私はあのラストシーンから、そうした極めて難しく微妙な問題に関する問題提起を感じたのですが、でも、あの構成では読後感の印象の悪さ(精神病患者のわがままさ、そしてそれに振り回されるスタッフや健常者たちという構図)が際立ってしまう。監督の言う、「健常者と精神障害者との間の見えないカーテンを取り払う」に、全く逆行する(=健常者側からむしろ積極的にカーテンを引きたくなってしまう)結果を誘発しているように思えてならないのです。

      # というより、編纂している時点でそこには何らかの『意図』が入ってしまって当たり前なわけなので、
      # 「私からのメッセージというのはない」と言ってしまうのはずるいと思うのですけどね;。> 監督さん

      あらゆる人は他人とは違っている。全人的な人なんてこの世の中には存在しないわけで、そうしたちょっとずつ「おかしな人」が集まってこの世の中は構成されている。その「偏差」をどうするかは、結局のところは当人にしか解決できない問題だし、当人が背負うべき課題。もちろん、その「偏差」をプラスに転じるのには、健常者でも患者でも、多かれ少なかれ周囲のサポートを必要とすることが多い。そうしたサポートがある世の中の方が、私は素敵だと思うけれども、半面、サポートとは何か? という難しい問題に直面せざるを得なくなる。安易な共感でもなく、安易な救いでもなく、本当に相手のためになることは何なのかを突き詰めて考えることは、とてつもなく難しい問題だなぁと改めて考えさせられました。

      ……とまあ、あれこれいろいろと書きましたが;、でじくま氏の言うように、「精神科の患者さんが実際にどういう思いを抱きどういうことに苦しみながら生きているかを知るチャンスはほとんどない」というのはまさにその通り。「カーテンの向こう」に隠されていた精神科の世界を垣間見れる、類稀なる機会とも言えるので、見てみても決して損はない、と思います。人により思うところ感じるところはいろいろあるでしょうが、そういうことを考えることこそが貴重なフィルム、と言えるかもしれませんね。いつまで上映されているのか微妙な作品なので、見るなら早めに見ておくとよいと思います。

      ふう~;、というわけで未だ胃腸炎のダメージを引きずっている今日この頃なわけですが、こんなときはとっととおうちに帰ってぐっすり休みたいもの。……がしかし、やはりマーフィーの法則は健在。こういうときに限って、一緒に仕事している新人君が見事にしてやらかすのですよね;。作成をお願いしていた資料が、見た目はなんとなくよく出来ているように見えていたものの、そこはかとなく不安になって、そこに書かれている手順をなぞってみると、出るわ出るわバグの嵐;。

      「ここに書かれているこの手順ってなんで必要なの?」
      「うーん、実はよくわからないんですよね。」

      って、おいっ;;。細かい間違いはもとより、自分の書いている資料の意味が分かっていないという悲惨な有様で、そんな状況では資料の正しさが担保できるわけがない。ひとつひとつのステップをレビュー & チェックしていくよりも作り直した方が早くていいものが出来るという始末で、おいおいこれはさすがにあんまりにもあんまりだろう、状態;。

      実はこの人、もともとが他の国の出身で、大学院から日本に来ていて日本で就職した人。もともとの話では、日本語にちょっと問題があるかも? と聞いていたのですが、フタを開けてみればそうじゃない。日本語に関してはほとんど問題がなくて、むしろ問題なのはいわゆる一般的な思考力。技術力が足りないのは新人だから仕方ないにしても、例えば

      • どうやってあるデータを表形式にまとめるか?
      • どういうストーリーでお客さんに説明するのか?
      • トピックをどう構造化するのか?

      といったことは、言語に依存することじゃないし、技術力以前の話。加えてケアレスミスがこうも多発すると、ぶっちゃけ仕事に対する真剣さが足りない、としか言いようがないのですが;、問題なのはなんで社会人 3 年目だというにもかかわらずここまで当事者意識が弱くていいかげんなのか、という点。

      ……と、つらつら考えていてふっと思い当たったわけです。
      あ゛ー、要するに甘やかしすぎなのか;、と。

      今日の件は、今回のプロジェクトでもう何度も繰り返して注意していた上でのことだったので、「いやまあ今回のプロジェクトでは大目に見るけど、もうあなた 3 年目でしょ? あと 1 年もして同じ状況だったらクビ切られると思うよ」とはっきり通知したのですが、にしても考えてみれば、まだまだ甘いのですよね;。本当に本人に分からせなければならないのなら、メンバを入れ替えてもらうなり左遷するなりしなくちゃいけないのですが、つい「新人だから」「納期に間に合わないから」という理由で、結局自分の方がフォローして、手取り足取り教えて、3 倍以上の時間をかけるハメになっている;。で、当人は横で見ていて「ふんふん」言うんだけど、結局これって身についていない;;。しかもうちの会社だとプロジェクトの期間が短い=ころころメンバが変わるので、大きな問題として認知されることなくここまで来ちゃったんじゃないかと思うのですよね;。

      # 実際、「今、何年目だっけ?」という質問に対して、「えっと、1 年半ぐらいです」
      # 「?? 2 年目じゃなくて?」「研修が半年ちょっとあったので、現場配属から数えると
      1 年半ぐらいなんです」……ってどんだけ甘えてんですかこの子はっ、状態;。
      # これはさすがに叱りましたけどねー;。うーん;。

      先に立つ者として、ある程度は後から来る者を先導しなければならない。それは先に立つ者の責任。けれども、いつまでもその人のサポートをすることは、結果的にその人の自立を阻害してしまうことになる。ある地点を過ぎたらそこから歩き出すのは個々人の責任。問題は、その責任分解点をどこに取るのか、ということ。話は単純なものの、なかなか答えのない話ではあるのですよね;。

      # 職場環境の男女比率が偏っているので、若い女の子を甘やかす人がいるのも大問題;。
      # 手助けするのはいいんだけど、甘やかすのは結果的にその子のためにならないんですよねぇ。

      本人にモラルがあれば、もともとこんなことは問題にはならず、手助けされたらそれをバネに頑張ってくれるものだと思うのですが、表面的には頑張る態度を取るものの、実態がまるでついてこないのがつらいところ;。手助けしてもらったことを有難いと思うのであれば、次は手助けなしで自立できるように「自分の問題・課題として」きちんと取り組んでほしいものなのですが、無意識のうちに甘え癖がついてしまっている人にはなかなか難しい話、なのかもしれませんねぇ。

      ……とまあ愚痴ってみても、手元に戻ってきた仕事はこなさなくちゃいけないわけで;。がんばろう……orz。

      というわけで、今日でやっと三連荘の飲み会ラッシュが終了~。ちょいと仕事が忙しい日々が続いていたので、リフレッシュがてら 3 日間連続で飲んでたのですが、いやはやまあ出るわ出るわひどい話が;。

      実は自分の会社でも、人員削減のあおりで退職者が出ているのですが、やっぱりというかなんというか、ほとんどは切られるべき人が切られている。まあ正直、パフォーマンスがイマイチな人から切られていっているのですが、参ってしまうのは、そういう人たちにリストラな話をするとあっという間にモンスターに変身してしまう、というもの;。

      ホントにひどいなぁと思ったのは、こういう人たちって自分のことしかもう見えなくなっている。なので、仕事の引き継ぎとかもきちんとしないままに訴訟体制に入っちゃうのですよね;。そりゃ確かにお金のことはそれでいいのかもしれないんですが、でも実際にそんなことをすれば、周囲の人たちにかなりの迷惑をかけることになる。おそらくそういう人たちは、それがどういう意味を持つのか全く分かってないのだろうと思うのですが、そういう様子って、ちゃんとまわりの人たちは見ているのですよね。ということは、景気が回復してもそんなことをやらかした人は二度とその会社には再採用されないだろうし、別の会社に行ったところで、業界なんてしょせんどこも狭いので噂は必ず付いて回る。そういうことに気が回らないのですよね;。

      他人に迷惑をかけないようにしようとか、立つ鳥は後を濁さないようにしよう、といったメンタリティのない人が、いい仕事なんてできるはずがない。「さんざん愚痴愚痴とやってるみたいだけど、ちゃんと引き継ぐことすらも出来ずに年休消化に入るような無責任な人だから、リストラ対象になる、っていうのが分からないのかなぁ」というのは同僚の弁ですが、私も実に同感。もちろんすべてがそうだとは言いませんが、概して言えば、やっぱり切られるべき人が切られている、のですよねぇ。

      自分が切られる人にならないように、高いメンタリティを持ち続けてお仕事がんばらないとなー;、と思ってしまった今日この頃です。いやはや;。

      ここ最近、なんだか新卒君たちとの接点がいろいろと増えていたり。や、自社内の新卒君たちと話す機会も適度に増えているのですが、それだけではなくて社外の新卒君たちと話す機会もぼちぼち増えているのですよね。実はお客さんから、新卒君たち向けの講習会の依頼がぼちぼち入っていて、その目的というのが、どちらかというと技術的なところというよりもメンタル面での影響を意識したもの。いわんとすることは分かるんだけど、これがなかなかに難しいなぁ、と思うこともあったりします。

      そんな中でちょっと興味深かった話を一つ。ある会社の新卒君たちと話しているときに、「自分の仕事の単価(価値)が分からない」という話が。要するに、自分の仕事の時間単価ってどのぐらいなのだろう、という話。

      や、もちろん仕事の時間単価は給与を業務時間で割り算すればよくて、例えば月 20 万円の給料で 30h の残業だとすると、\200,000 / 180h = 約 1,111 円、つまり時給換算で 1,100 円程度、ということになるのですが、新卒君たちが分からないのは、自分たちの仕事の価値が本当に 1 時間あたり 1,100 円なのかどうか、というポイント。もちろん仕事の価値を図るためには、結局のところは

      • その仕事がお客様に提供している価値

      を測定する必要があるのですが、会社組織が絡む場合には、

      • 会社がお客様から頂くお金(売上)
      • 会社から従業員に支払われるお金

      の二つに少なからずギャップがある。そこの不透明感ゆえに、自分の仕事の価値ってどれぐらいなんだろう……と悩んでしまっている……らしいのですね。

      ……いやまあそりゃ悩むわな、と。
      でも、そこの二つのリンクに悩まなくなったとたんに、モラルハザードが起こるんだよ、と。

      や、この二つがリンクしなくなるとどういうことが起こるのか、というと。

      • 「そこにいること」(仕事をしていることじゃなくてそこに「いる」こと)で給料がもらえている、という感覚に陥る。
      • 結果として、日中だらだらと仕事をして、無駄に残業して、残業代を稼ぐ

      といった本末転倒な事態が発生してしまう。でも、文字にしてみると分かりやすいですけど、それって大の大人としてはめっちゃ情けない。なんていうのか、プライドのかけらもない行為、だと思うのですよね。

      お仕事って、ともすれば人生の 1/3 ぐらいという大量の時間を投資するもの。私は、人生において時間というリソースは人に対して平等に与えられているものだと思うのですが、それゆえに時間というリソースはとてつもなく貴重なものだと思うのですよね。にもかかわらず、貴重な時間を投資するのに、そんな無為に過ごしてどうするよ? と思ったりするのです。

      「お金をもらうために仕事をする(労働力を提供する)」という考え方は、ちょっとプロとしては寂しい考え方。自分の時間をそんなに大量に投入するなら、お客さんのためとか世の中のために仕事をして、『その結果として』相応の報酬をもらう、っていう発想の方が、充実した人生になるんじゃないかなー、と思うのですよね。

      だから、どっちかというと、「お客様のために全力で頑張る」というのがまず最初にあって、『プロ』として『自分に誇れる仕事』をちゃんとしよう、っていう思いがある方がいいんじゃないかな、と。

      例えば、

      • 「ああ、今日は我ながらいい仕事ができたな~。」(上機嫌)
      • 「おー、今日は我ながらGJ。明日もこの調子で頑張ろうw。」(上機嫌)

      みたいに感じられる日がたくさんあること、それが重要なのではないかな、と思うのですよねー。

      サラリーマンは、それこそ「人目につかないように遊んでいても」給与がもらえてしまうもの。けれども、そんなにつまらないことして、人生が面白くなるのかな?と思うと、自分的には激しく疑問。ま、考え方は人によるので何が正解ってわけではないのですが;、自分の場合は、どーせだったら充実した仕事になるように頑張りたいもの。たとえ自分の給与と自分の仕事のリンクが見えにくくても、まずは全力で頑張って、誇れる自分でいられるようにすること、それが大切なじゃないかなー、と思ったりします。はい。

      でじくま氏のところのエントリで見かけて、そういや最近やってなかったなぁと久しぶりにリトライしてみたり。

      この Web ページでもたまに触れているものですが、Web 上で実施できる簡単な性格診断プログラム。人間の性格傾向を 5 つのベクトル(CP, NP, A, FC, AC)で捉えよう、というもので、簡単な 50 個の質問にちょいちょい答えていくだけで自分の性格傾向をある程度掴めるというもの。ちなみに過去の実績はこんな感じ~。

      2003/01/15 acaab
      2003/03/30 ababb
      2003/07/12 aaabc
      2004/01/13 ababa
      2004/05/16 ababb
      2005/01/09 baaaa
      2005/06/15 aaaba

      さて、今回の結果はとゆーと。

      ざっくりコピペしてくると、こんな感じ~。

      • 性格
        現実主義タイプで、精神的にはタフネスです。自分の置かれている立場とか、為すべき仕事の範囲などを的確に把握していて、その実現に精神を集中できるタイプです。仕事には厳しいが、思い遣りや同情心も高く、合理的反応を誤る事は滅多に有りません。自己表現を計る事に忙しい為に、趣味や娯楽など人生のゆとりに属する部分を、段々と切り詰めて行く可能性が少なく有りません
      • 恋愛・結婚
        余り世間の常識から掛け離れた男女関係などに踏み込む可能性は、殆ど無いタイプです。大人の恋愛、大人の結婚をするタイプなので、艶色のスキャンダルを起す危険性は、先ず有りません。結婚後は、仕事と子供を中心に夫婦関係が回転して行く極く普通の家庭を築く可能性が非常に高いでしょう。
      • 職業適性
        性格的には仕事なら何でも御座れ、のタイプです。各方面の職業に対する適応の巾が物凄く広く、後は才能と努力次第と云う事になります。
      • 対人関係
        責任や道徳を他人に厳しく云う代りに、自分にも厳しく、同情心、寛容心がかなり高い事とも相俟って、ケースバイケースの適格な判断を誤らない言動は、周囲の人々に高い評価を受けるでしょう。しかし、そう云う高次元の領域ばかりが先行してゆくと、知らず知らずの間に四角四面の人間が出来上がって行き易いものです。今後は趣味や娯楽の面も、等閑視しない事が必要でしょう。

      ……うーん、ホントか?(苦笑) みたいな項目もいくつかあるのですが、確かに生活に「ゆとり」があるか否かというと難しいところ。や、趣味にも全力を図る人間ではあるのですが、趣味すらもスケジュールコントロールされている、という意味ではあまり気持ちのゆとりがないのは確かかも、とちょっと反省;。そこが原因で、四角四面(堅苦しくて柔軟性がない)の人間になりやすい、というのもわかるかなぁ、という感じ。たまに他人と接していて、クッションのようにうまく他人を受け止められる人を見るとすごいなぁと感心するので、そういう部分は自分に足りていないのでしょうね。

      # まあでも職業適応の幅はそんなに広くない気がするなぁ;。基本ヒッキーだしw。

      でもたまにこういう性格診断系プログラムをやってみるのはいい経験になりますね。性格っていうのはデコボコがあって当然だし、マイナスの性格をうまくプラスのアウトプットに転じるやり方というのが必要だと常々思っているのですが、とはいえマイナス部分はうまく修正・補正したい気はしますね。:-)

      というわけで今日はこちらのインプレをひとつ。

      20090520c

      えと、日経プレミアシリーズから最近発売された、「リンゴが教えてくれたこと」。奇跡のリンゴで有名な、青森の木村氏の書き下ろしによる一冊。以前、こちらのエントリで紹介したのはノンフィクション作家である石川氏がインタビューを重ねて一冊のドキュメンタリー本に仕立てたものですが、今回のこちらの本は、木村氏本人によって書き下ろされた一冊。

      さすがに作家さんが書いたものではないため、物語的に読みやすいかというとそうではないのですが、ご本人が自分の言葉で語っている分、魂がこもった言葉になっているのが良いところ。特に、天啓とも言える土の違いに気づいた瞬間の話などは、つたない言葉であるがゆえにむしろ伝わってくるものがあるように思えます。

      個人的に印象に残ったのは以下の 2 節。

      「自然はものを言わないから、こっちがそれをとらえる感性を磨いていかないと」。会って話せばお互いの共通点に驚きます。齋藤さんがこう言ってくれました。「木村さんと話したって何を言わんとするか、お互いに分かっているわけなんですよ。全体を見ている。放っておけばどう変化しているかを見る。そこに余計な技術を使わないで、ずっと見ているってことが大事なんですよ。それがみんな、高学歴になるとじつとしておれない。その辛抱強さ、耐えられる人が今いないんですよ。」(p.154)

      自然栽培には手間暇がかかります。でも自分の子供をほったらかして育てられますか。育てるというのは手間暇がかかることなのです。お父さん、お母さんからの愛情が必要です。でもそれは当たり前です。「手間暇惜しむものにいいものなし」。昔からそう言われます。(p.193)

      あたたた、耳が痛い話で;。自分は手間暇をかけなければならないものが苦手な人間なので、かなり耳が痛い;。なんかこういうのを聞いていると、プランターでもやってみるのがいいのかなという気もしてきます....実際には相当ハードル高いのですが;。

      ちょっと残念だったのは、なぜ木村氏がここまでリンゴの無農薬栽培にこだわったり取りつかれてしまったのか、という本質的な部分が、わかるようで今一つわからなかったこと。もちろん、取り憑かれるというのはもともとそういうものだし、だからこそその先に道は開けるものなのですが、そこの葛藤というか「突きぬける」ところについてももっと知りたかった、というのが本音なところ。

      しかしやはりこうしてこの本を一冊読んでみると、いかに木村氏が博識であるのか、ということに驚かされます。奇跡は積み上げた努力があってこそ成し得たもの。努力していない人間には奇跡は訪れない、ということを改めて感じさせてくれる一冊でした。「奇跡のリンゴ」の本を読まれた方には、副読本的にぜひおすすめしたい一冊です。

      というわけで昨日は、叔母がデジカメを買うのに合流してみんなでお寿司屋さんに行ってきたのですが、たまたまみんなのスケジュールが合うという偶然が重なって、いつの間にやら一族大集合になるワナ;。なにげに 10 人集まって食事会というトンデモ状況になっててびっくりでしたが(笑)、突発でこういうのができるのも楽しいもの、ですね^^。

      CA0PXWTP

      ……まあしかしあまりにも食べすぎすぎてひと晩寝て起きた今でも正直動く気力が起きないのですが;^^。でも作業しに会社に行かねば;;。そんなわけで今日はこちらのエントリに対して入っていた Web 拍手のお話をひとつ。

      >  職場の上司にも似たようなこと言われましたね。任された仕事に関連する
      > テーマについて、その時々に自分なりに深く掘り下げていくようにと。
      > そうやって自分の専門知識を増やしていくものだと言われました。
      > 言われてみるまでそんな発想が湧かなかったのですが、このブログでも
      > 同じ指摘をされていると言うことは、普遍的な仕事の覚え方なんでしょうね。

      私も割と普遍的な仕事の覚え方なんじゃないかなと思ったりします。新卒の人だと、新人研修の中で受ける幹部からのお言葉の中にこの手の話が入っていたりするみたいですが、新人研修の中で言われるだけだとなかなか実地とは結び付きにくいもの、でしょうねぇ。

      > 世の価値観を素直に受け入れいれるのがもっとも効率的なのですが、
      > 大抵の人は程度の差はあれ反社会性も持っているので、持って生まれた
      > 能力とどの深さから持論を組み立てるかでその完成時期はそれぞれ
      > 違って30超えなきゃ本当の資質というものは分からないんじゃないかなとは
      > 思います。まあ、ほとんどの人は上下関係による承認で満足してしまうので、
      > それを防ぐには最終的には社会システムそのものを変えなきゃいけない
      > んですよね。権力性のない理性には人の感情は反発するもので、そういった
      > 理由から個人的に言っても分かってもらえないので諦めるしかありませんw

      完成時期(様々な持論がきちんと一つの形をなす)は早い人でも 30 前後、というのは私も同感で、新卒そこそこの人がそんなにすぐに完成することはないと思います。……が、30 前後になれば自動的に完成するわけではない、とも思っていて、場合によっては未完のままに終わってしまう人もいる。確かに、どういう結果になるのかが見えない中で持論を作れ、と言われても、なかなか積極的に取り組めないというのもわかる……のですが、その辺を上手に導く機能は社会が持っているべき、だと思います。これは、子供が独り立ちしていくのに家族や社会、あるいは学校などのサポートが必要なのと同じ理屈で、「頑張ること」「突き詰めて考えること」などに対するポジティブフィードバックがもっとあってもいいんじゃないかな、とは思います。

      この辺は、「評価システム」とも関係するのですが、私は、ある人の評価(査定)は基本的には 3 つの柱で構成するのがいいんじゃないかと思っています。具体的には、

      • 売上
        広範な意味の「売上」。間接部門であれば、その間接作業で生みだした利益が売上。
      • お客様の満足度
        売上はある意味ドライ(無味乾燥)ですが、満足度がなければリピートにつながらないため。
      • その人のポテンシャルや頑張り度
        マネージャによる不透明評価。その人がどれぐらい頑張ったのか、今後どれぐらい伸びそうか、組織に対してどれぐらい貢献したのか、などを定性的に評価。

      この 3 つをほぼ等配分のウェイトで評価。最初の 2 つは定量評価、最後の 1 つが定性評価。最初の 2 つは数値でピシっと決まるので、割と主観の入る余地がなく、割と公平。最後の 1 つは公平感に欠けるものですが、私はむしろそういうところを残してポジティブフィードバックを行わないと、本来だったら伸びる人が伸びずに終わってしまうのではないか、と思ったりします。

      # まあどっちにしても、自分がやるべきこととしては、とりあえず後輩に背中を見せること、
      # なんだろうとは思ったり。マネージャがやるべき仕事と、現場の人がやるべき仕事は、
      # この辺それなりに分かれていなくちゃいけないんだろうなぁと思います。

      さて、軽く朝ごはん食べて会社行こう....

      うむむ、ここ最近お仕事でかなり忙殺されていたりするのですが、その理由というのが実にしょーもない;。普段だったら一人で仕事をこなすことが多いのですが、今回は自分の専門外の分野の話もありそう、ということで、そのエリアが専門の入社3年目の若手の子と一緒にやっているのですね。……が、しかし。

      おいおいなんでそんなこともわかってないんですか><。
      あなたホントに入社3年目? というか今までいったいなにやってきたんすか;;;。

      みたいな状態に;;。何を聞いても「~~だと思います」「調べてみないと……」の連発、さらには「A と B のチョイスがありますけど、それはお客さん次第ですね」……って、おいおいお客さんの状況を鑑みてそのどちらかを理由つきで提案するなりトレードオフを示したりするのが我々の仕事でしょう、と全力でツッコミ入れたりしているのですが、曖昧な答えや不確実な答えが多すぎて、頼んだ仕事のアウトプットがことごとくすべて信用ならない。結局、自分で全部調べ直すハメになっていて、いやあなた正直邪魔だから……と言いそうになるワナ;。

      もっともそれをちゃんと指導するのも自分の役目……と言い聞かせて、とりあえず自分の仕事のやり方を見せたり、骨格や思考方法をうまく見せて真似してもらったりとあれこれやっているのですが、それにしても3年目でありながらなんでこんな低スキルというのはひどすぎる……と思ってあれこれ話していて納得。実はこの若手の子、要するに今まで Q&A 対応のような仕事しかしてこなかったのですね。簡単に言えば、お客さんや上司から与えられた質問や課題をその場しのぎで調べて打ち返す仕事ばっかりやってきたせいで、自分で考えて、自分なりの見解を作るという作業を怠ってきていたのですね。……ああ、そりゃ無理だわ、と;。

      専門性が求められる職種の場合、たとえそのエリア数が少なかったとしても、何らかのエリアについてある一定以上のきっちりした知識や持論を持っているのであれば、そのエリアについては仕事を任せてもらえる。でも、「どのエリアの知識も中途半端にしか持っていない」ような人には仕事を任せられない、のですよね。

      若手の場合、どうしても最初は振れる仕事が少ないから Q&A 対応的な仕事を任せざるを得ないわけですが、それを漫然とこなしているだけでは絶対に幹となる知識体系はできない。何らかの仕事を振られたら、そのエリアについては知識を深堀りして、きちんと自分の持論や知識体系を作っていくようにする。そして、そうした「自分なりの持論を持ったエリア」の数を少しずつ増やしていく。そうして行かない限り、いつまでたっても若手の新人から脱却できない……のですよね。

      こういうのって割と当たり前のはず……なのですが、仕事に忙殺されるとつい忘れがちになるもの。目の前の Q&A 対応を漫然とこなしてそれで満足してしまうのは、今も社会問題になっている派遣切りの問題にも根底的には通じているもの、でしょう。けれども、どんな環境の中でも「ちょっと余計に深堀りしてみて自分なりの持論を作っていく」ことはものすごく重要なのではないか、と思ったりします。

      というわけで今日はプロジェクト終了の打ち上げ飲み会。や、先月末までやっていた結構大変なプロジェクトだったのですが、無事に終了したので打ち上げになった次第。改めて振り返ってみて、ホントにいいプロジェクトだったなぁと思ったわけですが、はてそもそもなんでそう思ったんだったっけか? と思ってしまったり。

      これだけ長いこと仕事をしていれば数々のプロジェクトに当たりますが、振りかえってみて良かったなぁと思えるプロジェクトの共通点、それはやっぱり参加している人たちの「人の良さ」。「仕事自体が面白い」とか、「大きなプロジェクトを成功させた」とか、そういうことも確かに「良かったプロジェクト」につながる一因ではあるのですが、ただ、それだけだと自分の場合は「思い出として残る」プロジェクトにはならなかったりするんですよね。どちらかというと、誰かに助けてもらったときとか、気遣ってもらったときとか、そういう琴線に触れるようなことがあったときの方が、ずっと思い出に残るもののように思える。

      今回のプロジェクトの場合、お客さんに助けられたなぁと思う瞬間が多々あって、お客さんが礼儀を尽くしてくれるからこっちもがんばろう、そういう好循環サイクルがうまく回るプロジェクトだったんですよね。まあ、見方を変えれば、先方のプロジェクトリーダの人が、「かけたコスト以上の力を引き出すやり方をよく知っている」ということなのですが、実際その通りで、気持よく仕事してもらえる環境を整えると、人によっては期待以上の仕事をしてくれることがある。ある意味それは Win-Win の関係なわけで、お互いがハッピーになれるのですよね。

      この歳になると、プロジェクトというのが一期一会であることを知っているだけに、また同じチーム、同じメンバで仕事をすることは絶対にない、とわかっているのですが、それでもやはり残念に感じてしまうのは、いい仕事をさせてもらった、っていうことの証。打ち上げの飲み会で、お客もなにも取っ払ってみんなで笑顔で大騒ぎできるっていうのはやっぱりいいものだなー、と改めて思ったり。

      プロジェクトの良し悪しは、人の良し悪し。こういうプロジェクトに当たることはなかなかないのですが、またどこかで素敵なメンバに恵まれたチームと巡り合いたいものです。はい^^。

      というわけで今日はこちらの書評をひとつ~。

      20090423

      えと、最後のパレード。ディズニーランドの開業に携わり、パークのスーパーバイザーを 15 年間つとめた著者がキャストに語り伝えていた 33 個のエピソードをまとめたという本。1 つのエピソードは数ページ程度の短編になっており、サクサク読める割には感動的なエピソードが多いというなかなか興味深い一冊。全体的に、障害者や亡くなった家族などの話に傾倒している面はあるのですが、そうしたエピソードの方が琴線に触れやすいのは確かなので、それはまあ仕方ないことなのかもしれません。

      ま、それはともかく、この本を手に取ったのは、たまたまベストセラーのコーナーに並んでいたから……なのですが、実はなにげにこの本に関して盗作疑惑が持ちあがっているのだとか;。すでにまとめサイトもあるので細かいことをあれこれ書くつもりはないのですが、あ゛ー、やっちゃったよ、状態(苦笑)。読んでいて、これは誰が書いたエピソードなのかと疑問に思う場所もいろいろとあったのですが(お客様からの手紙がそのまま掲載されているものもある半面、一人称をかたって誰かが書いたような感じのする文章もある)、2ch で語り継がれているエピソードを脚色してとりまとめたようなものもあって、ありゃー、という感じに;。

      これらのエピソードが盗作だったのかどうか? という点に関しては、実際に盗作だったのであれば、スタッフ(キャスト)の士気は一気に崩れるだろうし、さすがに褒められたものではない。ただ、そうした議論を横に置いておいて私がこの一冊を読んでいて思ったのは、何のために仕事をするのか、そしてそのためには何が必要なのか、ということ、だったのですよね。

      例えばこの本の中に出てくるエピソードのひとつに、こんなものがありました。指輪を板と板のすきまに落としてしまい、取り出せなくなっていたときのこと。キャストの方が、大切にしていた指輪なので必ず取りだすと約束し、後日、その床を壊して指輪を取り出したという話。あるいはジャングルクルーズで落としてしまった指輪を、ダイバーの人たちが捜索して見つけたという話。

      これが実話なのかどうかは私にはわかりませんが(でも TDR だと普通に実話なんじゃないかという気がしますが;)、ただ、こうした数々のエピソードを読んでいると、キャストの人たちが何を大切にして仕事をしているのか、というのが伝わってくるのですよね。それは、お客様の気持ちを大切にしている、ということ。お客様の気持ちを汲み取って、素敵な思い出作りのお手伝いをする、というホスピタリティの精神に満ち溢れている。

      けれども、それを実現する上で重要なポイントになっているのが、度外視といっていいほどコストをかけていることがある、という点。上のエピソードなどがわかりやすいのですが、これらはどう考えてもコストがとてつもなくかかっているはず。けれども重要なのは、実際にそのコストをかけられる、という点だと思うのですよね。

      ビジネス的な観点から見た場合、上のエピソードではぶっちゃけそこまでする必要性は皆無、でしょう。けれどもそこに仁義はない。なぜ TDR のような場所で上記のようなエピソードが成立しうるのかというと、

      • キャストのみんなが一つの方向を向いている。(=その目標や志のために残業や厄介な仕事などが発生してもそれを積極的に進んで快く受け入れる素地がある)
      • 仮にそのために追加のコストが発生したとしても、それを吸収できる経済的余裕がある

      の 2 つがあるから。そしてこの 2 つが揃っているからこそ、TDR は入園料を下げなくてもちゃんとお客さんが集まるし、仕事としても良循環のサイクルがまわっているのだと思うのですよね。

      結局のところ、ポリシーや志のない仕事のやり方は、短期的には成功しても、長期的には成功しない。コストとサービスはバランスが取れていることが重要。そんな当たり前のことを実践することが、多くのビジネスに共通する基本的なキーポイントなんじゃないかなぁ、という気がします。

      盗作疑惑でケチがついてしまったのは残念なところですが、自分にとって仕事をするということがどういうことなのか、ということを考えさせてくれる良著。ちょろっと読み流せる本なので、手にとってみてもよいんじゃないかと思います。……いやまあ、盗作自体はダメすぎですけど><。

      ふう~、そんなわけでようやく週末~。いやはやぼちぼち忙しい今日この頃なわけですが、今週は厄介な話に巻き込まれていたり;。来週水曜日に緊急に大型案件の提案があるので手伝ってくれ、と言われて支援に入ったのですが、よーく聞いてみると水曜日は実際に採用するメンバの面接を兼ねてるとかいう話になっていて、万が一それにパスしてしまうと 1 年間ほとんど出向状態で現地で仕事をすることになりそうなワナ。ちょwww、おまwwww、それは完全にワナにハメただろう、という感じで、挙句の果てにその提案書の練り込みのミーティングに行ったら、うちの組織の部門長が出てきて、

      「いやでもこの案件、dedicate(フルアサイン)の人を決めないと提案できないですよね?」
      「まあそうだねぇ」
      「私はどう考えても無理なんですけど、そのアサイン調整が先なんじゃないですか?」
      「まあその場合は今やってる案件とか引きはがしてもアサイン調整することになるんだと思うよ」
      「……えー、それはつまり強権発動するよってことですか?」
      「いやそうは言ってないけど、まあ業務的にしょうがないこともあるよね」

      と、超険悪ムードに(笑)。会社間での上位レベルでの合意もあったりするので、ともすると人身売買(別名:どなどな~)されそうな気配になってるわけなのですが、いやはやちょっといいかげんにしようよ状態だったり;。

      まあ部門長がここまで躍起になる理由はわからないでもなくて、直近の売上ダウンのリカバリはもとより、この提案の次に続く本提案は数億円規模の売り上げが見込める。となればなりふり構わず人身売買したくなる気持ちも分からなくもないわけですが、だからってそれを自分がやらなきゃいけない理由はない。っつーか、すでに売り上げ目標を上回って達成していて、次のお客さんも見えていたりする中で、組織とマネージャの都合で人を振りまわすなよ状態なわけですが、それよりなにより、そもそもそんな仕事を受けたらなんのために仕事してるのかわからなくなるからイヤ、なんですよね。

      私にとって仕事は目的を達成するための手段であって、違う目的を達成するための手段を強要されることは、自分の目的を捻じ曲げることに他ならない。今の組織にいるのは、自分の目的を達成するための手段としてたまたま有益だからそこにいるだけの話。組織に所属することの義務は最低限どころかかなり上回って達成しているのに、自分の目的を捻じ曲げることを強制されるようならそもそもこの組織にいるメリットがなくなる。いやもうそんなことするなら問答無用で会社辞めて別の会社探すよ? 状態なのですよね;。

      簡単に言えば、自分にとって会社に所属して仕事をすることは、自分の目的を達成するための手段でしかない。それを、組織の都合で捻じ曲げられるのであれば、会社との契約関係は成立しえない。会社との契約関係は、単に労働力の提供と、それに対する対価のトレードではなくて、本来的にはお互いの目的に対する利害の一致によるものであるべき、だと思うのですね。で、その利害の一致がどうしても一致しなくなったらもうやめるしかないだろう、と。

      まあ、別にそんなにクリティカルな抜き差しならない話にはならないとは思いますが(苦笑)、いちいちこういう話を説明しなくちゃならないのが正直めんどい;;。たぶん、マネージャからしたら言うこと聞かない不便な子なんだろうとは思いますが;、私には私の人生や生活があるし、マネージャにはマネージャの人生や生活があるし、組織には組織の理論がある。ちゃんと「自分」を持って、そして組織と対等な関係を持つこと(できればちょっとだけ自分の方が力が強い方がベター^^)、そして曲げられないことははっきり曲げられないということが、ものすごく大切な気がしたりします。

      ……でもまあどうなるのかなぁ、とは微妙に心配ではありますが。(苦笑) ま、なるようにしかならないんですけどねw。

      というわけで今日は先日お仕事していたときの話を一つ。

      昨年末あたりからやってたプロジェクトがようやく一段落しそうな気配なわけですが、今回のプロジェクトでは OJT も兼ねて、若手の一人と一緒に仕事をしていたり。で、説明資料をちょろっと作ってもらったのですが、これがなかなかうまく書けない。特に単純なこと、当たり前なことほどうまく説明できないというのが顕著で、当人も改めて「なんでこんな当たり前なことがうまく説明できないんだろう」と悩んでしまう始末;。

      ああ、そういや昨年こんなことがあったなぁ、と思い出したのは新卒向けの講習会。これは別の人だったのですが、通常は経験者向けに実施しなければいけない講習会を新卒向けに噛み砕いて説明する必要があるのに、それをどうにもうまく説明できない。「そんなの常識じゃん?」の「常識」を、さらに分解してうまく説明することができなかったんですね。

      これ、考えてみると実はものすごく重要なことで、応用レベルの知識を、ちゃんと基礎レベルから積み上げて理解できているか、それとも上っ面だけ理解しているのか、どっちなのかという話なんですよね。で、実は基礎からきちんと積み上げで理解できていないと、実は応用レベルの知識を、実地でうまく活用できなかったりする(教科書的な知識にとどまってしまう)ことが多かったりするのですよね;。

      終わった後でそのメンバが、「素数だと思っていた数が、実はまだ素因数分解できたのに気付かされました」と言ったのを聞いて思わず見事な表現だなぁと感心してしまったのですが、おそらくはそういう話^^。要するにどこまで突っ込んで理解するのかという話なのですが、確かに理解する上で素因数分解はめっちゃ大切ではありますね~。

      ふう~、昨晩は夜中の本気ドラゴン戦がなかなか終わらずに真夜中になっちゃったので blog 書けずじまい;。というわけで多少遅ればせながらのエントリ~^^。

      さてさて、昨晩 ECO の攻防戦をやりながら NHK の番組を見てたのですが(最近定番になってるなこれ;)、そこでやっていた番組の討論内容がちょっと面白かったり。

      まあ簡単に言うと、最近若者の新聞離れやテレビ離れが進んでるんだけど、それってどうよ? という話をオープンディスカッション形式で進めるという番組。テレビ業界の人たちも呼んで討論が行われていたのですが、さすがにヤバい話には踏み込めないので割とキレイな話にまとめようとしていて、

      • 新聞/テレビ/インターネットは対立するものではない
      • 利用する側のマインドも違うので、適切な使い分けが起こるはずである

      みたいなところに議論が落ち着いて終了。まあやっぱりそういう結論になるよねぇ、と思ってしまったり^^。

      そもそも新聞やテレビというのは、基本的には利権ビジネス。新聞であれば全国に張り巡らされた販売店網というチャネル、そしてテレビであれば放送権というチャネルを持っていて、ユーザから選択権を奪う(=今さら既存のチャネルと同程度の影響力を持つチャネルを作れない)ことによって、そのビジネスモデルをさらに確固たるものにしているという面がある。だから、最近、新聞離れやテレビ離れが生じている、といった話に対してはマスメディア業界は過敏に反応するし、そのような傾向を示すデータについても否定する傾向があるし、視聴率もめっちゃ気にするのですよね。なぜって、それが取れないとビジネスが成立しなくなってしまうから。

      # どっかの局の番組制作担当?の人が、「自分たちは視聴率なんか気にしないで面白い番組を
      # 作ってるんだ!」と言いきっていたのを見て、おいおいさすがにそれは言いすぎだろう、と
      # 思ってしまったり。視聴率を気にしない=売上や利益を気にしないでビジネスしてる、という
      # 意味に他ならないので、(心意気としては買うけど)そういう発言はどうなのかなぁ……と思って
      # しまったとかなんとか;。

      新聞/テレビ/インターネットが対立するものではなく、利用者のマインドによる使い分けが起こる、という説明は非常にわかりやすいし正しいと思うのですが、問題なのはこれらを両立させるビジネスモデルがまだ存在しない、という点。新聞やテレビは利権によって成立しているビジネスなので、利権が崩されることに対して抵抗的。だからインターネットの出現で世界のルールが変革しつつあるのに、既存の利権を既存の形のまま維持したい、という考え方が透けて見える。その一方で、インターネット中心の革新派は、ネットが出現したのだから既存の利権をすべてぶち壊せとばかりにこれからは無料・オンデマンドが当然になる、などと簡単に言いきってしまう

      既存の利権を既存の形で維持することは無理だし、かといってすべてが無料・オンデマンドになるというのも無理な話。そもそもメディアとしての特性が違う(新聞=一覧視認性の高さと情報獲得速度が特徴、テレビ=ながら見ができることが特徴、インターネット=オンデマンド・ドリルダウンができることが特徴)のだから、どれかがどれかをリプレースすることはありえない、と思うのですよね。だから共存が起こる……というのはある意味よく分かる結論なのですよね。(この辺に明示的に切り込んでいなかったのが不思議ではありましたが)

      番組を見ていてちょっと面白かったのは、制作側がこういう結論にさらっと至ってしまうところをあまり推測していなかったのではないか、という点。番組中では、アメリカのインターネットテレビの例を引きあいに出して、メディアの融合が進んでいるとか、テレビの位置付けが変わってきている、みたいな説明がなされていたのですが、これはそもそも全く参考にならない話。番組中でも指摘されていましたが、アメリカはケーブルテレビが発達していてそももそ多チャンネルが当たり前。加えて、おそらくこの話の重要な点は、新聞/テレビ/インターネットがどう共存していくかという点であって、どう融合していくのかという点ではない。この辺をすっ飛ばした例の出し方をしていたので、「うーん??」となってしまったり。

      個人的には、メディア共存の形を模索するような話に発展して欲しかったのですが、結果的にはテレビはもっと質の高い番組、共有できるような話題を提供するような番組を作ってくれ、みたいなところに発展しちゃったのがちょっと残念。でもまあ、そう言いたくなる気持ちも分からなくはないので難しいところではありますねー;。

      うあ、しまった昨晩のエントリ上げるの忘れてた><。というわけで超いまさらですがエントリをアップ。たまには雑感系のエントリを書いてみたり~^^。

      や、先日の話なのですが、会社でめっちゃ忙しいプロジェクトに巻き込まれている人の何人かと飲んだのですが、あ゛ー、それはいわゆるデフレスパイラルですよ、と思ってしまったり。いわゆるデス・マーチ系なプロジェクトにどんどん新人(といっても中途採用の人ですけど)が投入されるという、一番やってはいけないことをやってしまっているのですが、会社の中での泳ぎ方を知らない中途採用の人たちがこういうところに巻き込まれると、ホントに溺れそうになるのですよね;。

      で、私が思わず言ってしまったのが、「仕事したら負けでしょう」、という話。
      いや、別に仕事するのが悪いこと、みたいな意味じゃないのですが^^、ある上限値を超えて仕事をしてはいけない、という鉄則を守らなくちゃいけない、という話をしたのですね。

      どういうことかというと、例えば毎日 8 時間仕事して、残業をさらに 6 時間したとします。それ自体はものすごく頑張ってるよね、という話になるのですが、こういう働き方をしたら負け、なのですよね。もし残業を 6 時間しようとするのであれば、むしろ残業は 4 時間にとどめて、残りの 2 時間は、勉強に充てるか、反省&戦略見直しに充てるべき、だと思うのですよ。

      仕事のアウトプットというのは、簡単に言えば、(その人の生産性)×(仕事した時間)。仕事をした時間を増やせば確かに仕事量は増えるのですが、どんなに頑張ったところで一日は 24 時間以上には増えない。だから仕事の時間を単純に増やすだけではリニアにしか仕事量は伸びない。それ以上の仕事をしたい or しなければならない、と思ったときには、生産性の方を高めなくちゃいけないのですよね。

      生産性の方はそうそう簡単に増えるものではなくて、地道にコツコツと勉強することによって徐々に培われていくものなのですが、ここを軽視していると、いつまでたっても仕事の総生産量は頭打ち。そのことをもっとはっきりと、強く意識して日々の仕事をこなす必要があると思うのですよね。

      ところが社会人になると明確なテストとかがなくなるせいか、勉強に対しての貪欲さが失われる人が多い。むしろ社会人になってからの方が勉強しなくちゃいけないと思うのですが;、そういうことを常日頃から意識しておくことはものすごく重要。なので、仕事したら負けだと思う、のですね。

      まあ、プロジェクトには波があるので、場合によっては残業時間を増やす必要がある場合もありますが、常時、残業時間ばっかり増やし続けるっていうのは最悪、みたいな意識を持っておくことは重要ですよねぇ。

      ふう~、というわけで今日から三日間は連続で某所に日帰り出張の講習会。泊まり込みというのも結構めんどいので、最近は極力日帰りで済ませるようにしているのですが、今日はたまにしか行かないそのお客さんの中にいる、マイミクの知り合いさんと急遽飲み会に。や、普段めっちゃ忙しく働いている方なのですが、今日はノー残業デーなので飲むとしたら今日しかない、ということで声をかけてくださったそうで、いやはやめっちゃ嬉しい限りだったり^^。

      この方、私より年上のシステムエンジニアさんなのですが、そんなに年齢が離れていないだろう……と思ってたら、49 歳だということを知ってしまって超びっくり。え゛え゛え゛、実はそんな年上だったんすか??;;状態で、いやもう今までの非礼の数々が(ry、状態。いやー、参りました;。

      私も小学生の頃からパソコンを触っていたので、パソコン歴ということで言えば実はたいして差がない、ということもあって昔話に華が咲いたのですが、その話の中でびっくりしてしまったのが 40 歳のときのエピソード。もともと技術がかなり好きな方なのですが、40 歳のときに行われる社長面接(まあ言ってみれば幹部候補生選別面接みたいなもの)の中で、会社から技術が失われるといずれ立ち行かなくなるから、人事制度的にスペシャリストとしてのキャリアパスや認定制度などを作るべきだ、ということを提言していたのだとか。今でこそ当たり前のように言われていることなのですが、10 年近く前にそのことに危機意識を持ってアクションを打っていたのはかなりの先見の明があるなぁという印象。そのおかげかそのお客さんは私の知っている中でも屈指の実力。

      ご本人も今なお現場のエンジニアとして第一線を走り続けている方なのですが、そんなエピソードに交えて話されたのが、掲題のエンジニア 35 歳定年説。要するに、エンジニアは体力知力が必要な仕事なので、35 歳ぐらいになると下からの突き上げに勝てなくなってくる。だから 35 歳になったらエンジニアを退いてマネージメントなどをするべきだ、というのが一般的な定説なのですが、二人で口を揃えて一言。

      「いやー、あれってウソですよね。(笑)」

      妙に意見が合ってしまったので苦笑してしまったのですが^^、49 歳になってもなお現役の方がおっしゃると、全くといっていいほどセリフの重みが違う。その方いわく、一時期、MS-DOS 時代から Windows 時代への変遷時期にプログラミングが楽しくなくなってしまって波に乗りはぐれそうになったことがあったそうなのですが(全部自力で作る時代から、用意されているものを使って作る時代に代わってしまったのがつまらなく感じたらしい)、そういうものなんだと受け入れてからは再び波に乗って、今でも楽しく技術を触っているのだとか。もちろん徹夜などはできなくなったものの、徹夜しなくても十分な生産性を出せるようになっているのでその点も問題なし。とはいえ、スポーツマンは筋トレが仕事じゃないけど筋トレを欠かさない、というのと同様に、プログラミングのような基礎トレーニングは常に欠かさないようにしているとか。

      なんかあまりにも意見がぴったり一致してしまって思わず苦笑してしまったのですが、たぶんこの方のおっしゃるように、結局、(徹夜とかはともかく普通の働き方であれば)体力・知力が限界に達するのは 35 歳なんていう若さではなく、もっと上の話のこと。けれども、情熱を失ってしまって走ることをやめてしまえば、限界点はもっと早くに来てしまう。だから基礎トレを欠かさずに、情熱を持って仕事を続けることがものすごく重要、なんですよね。

      それにしてもこの方、私は 49 歳だと知って本気でびっくりしてしまったのですが、いや確かに考え直してみると、情熱を失っていない人というのは 50 前後になっても全然若い。表情にしても口調にしても、なにもかもが 5 歳~ 10 歳程度は若く見えるわけで、改めて情熱の大切さを思い知った次第。年上の人が頑張っている姿を見るといろいろ感化されるところもあります。10 年以上先の自分がどうなっているのかは想像が尽きませんが、こういう人に負けないように頑張りたいものです。

      ふう~、というわけで今日はおうちでまったりお仕事。や、実は会社の経費削減施策の一貫で、基本的には土日祝日はエアコン禁止という素敵な命令が出たおかげで、とても会社じゃ寒くて仕事できねーよ、状態に;。正直、こういうことやりだすといろんなところに歪みが出るんだよなぁ……と思う半面、確かに土日祝日のエアコンは経費的にもったいないので合理的っちゃ合理的なんだよなぁと思う面もあり、どっちもどっち……なんですよね。

      や、どういう話かというと、会社のリソース(電気とかエアコンとか)は、学校に通っているときの感覚で「タダで提供されるもの」という意識がなかなか抜けにくいもの。だから、たまに「いやー、うちにいると暖房代とかかかるので土日は会社で過ごすんですよ」とか寝言を言う人もいるのですが;、冷静に考えれば会社だって暖房費は当然かかっている。問題なのは、これがどれぐらいの額なのかを知らない人が多い、ということ。例えば私の会社のあるオフィスの場合は、1 フロアの暖房をフルでつけると、もろもろ込みの値段で 1h あたり 4 万円の費用がかかるらしい。けれども、会社に来て、1 時間あたり 4 万円以上の価値のある仕事をするのはかなり難しいわけで;、土日に出社される(しかも少人数)というのは会社的にはものすごく赤字を垂れ流しにすることに相当する……のですよね。

      で、おそらくこういう話を聞いたらさすがにちょっとビビって、無意味に土日出勤する人は減るだろうと思うのですが、ここでさらに問題になるなのは、そういう情報をどうやってみんなに流すのか、という点。おおっぴらに話せば余計な反発を言いだす人もいるだろうし、かといってクローズにしておくと、憶測が憶測を呼んでマネージャ層に対する反発につながる。なかなか難しいところなのですが、こういう場合に役立つのが、結局、噂話の情報ネットワーク、だと思うのですよね。

      一昨年に、オフィスの環境改善委員会みたいなのを担当してみてわかったことがあるのですが、それは、オフィス環境などで納得いかないことがあっても、だいたいそれ相応の経緯や原因があって、そこを理解すれば(満足しなくても)納得してくれる人が多い、ということ。もちろん細かく調べてみると、これはちょっとオープンにはできないなぁみたいな話もあったりはするのですが^^、でも、単純に話が整理できてないとか、どういうふうに反発されるのかが分からないためにオープンにできないということも少なからずある。そういう話はきちんと綺麗に整理して伝えてあげるとかなりの人の不満が解消される。特に、会社のマネージャは仕事やプロジェクトのマネージャであることが多く、オフィス環境といった事務方まわりの管理をしている人がすっぽりと抜け落ちていたり、あるはその部分に関する現場の人たちとのコミュニケーションを取る人が全くいなかったりすることがある。こうした話はじわじわと人の不満として溜まっていくので、きちんとフォローしてあげることが意外と重要なのですよね。

      # そしてこの手の噂話のネットワークはなんといっても事務処理をしてくれている
      派遣の女性の人たちが中心になっていることが多いので、こことのコミュニケーションを
      # 密に取ることがむちゃくちゃ重要だったりするのですよね....と微妙に黒い話をw。

      噂話のネットワークはネットワーク構造がどうなっているのか見えないことが多いものですが、それでも誰と誰とが友達で、どういう情報を流すとどういう形で情報が伝わっていくのか、をある程度推測したり把握したりしておくことはかなり重要。もちろんウソ情報を流すとか、それを使って何か自分に利益をもたらそうとしたりする必要性は全くないですが、噂話という情報ネットワークに乗せた方がかえってプラスに働く情報もある、ということを意識することは重要じゃないかなぁと改めて思ったり。

      噂話はなにかと怖いものですが、うまく機能すればプラスになることもあるもの、ですよねぇ^^。

      ふう~、昨日は軽く買い出したぐらいであとは引きこもってひたすら ECO してたのですが、そんな最中でのフレさんとの会話。

      「およ; だれもいないw」
      「空いてる」
      「土曜日なのにw」
      「お天気いいですからねー、ECOってるの、もったいないです。」
      「とはいえさすがに食糧とかはあとで買出ししないと;」
      「私最近消費マインド大幅落ち込み中です」
      「あ゛ー;、かわりにECOで生産マインドアップですね!(え」
      「うはww」
      「ECOやってると他はどーでもよくなるから危険w」
      「最近、金曜夜帰宅時に食料品買い込む癖がついたので土日外出しないです」
      「www バーチャルおでかけw」
      「Googleですか?」
      「いえ、ECO(笑」
      「www まぁお金使わずにすむのはよいのですけど。」

      などと微妙に明るいんだか暗いんだかわからない会話をしていたのですが;、 将来に対する不安ばかりが膨らむ今日この頃、確かにオンラインゲームというのはお金がかからない趣味としては最強なんじゃないかと改めて思ってしまったり;。や、結構困ったことに私なんかの場合も ECO やってるとそこそこ満足できてしまう人なので、まあ最悪、お金なくなったら ECO の世界に埋没するかとか冗談半分で思ったりしたわけなのですが、そんな話を冗談半分で考えられる自分は今の時代としては幸せすぎる方。夜、ECO をやりながら以下の NHK の番組をつらつらと見ていたのですが。

      く、く、く、くらすぎる;;;orz。
      や、まあテーマ設定からして明るい話題になるはずがないのですけれども;。

      話の中心になっていたのは、製造業を中心とする業種で問題になっている派遣切り。雇用悪化の波は派遣にとどまらず正社員にも及び始めているわけですが、景気悪化のしわ寄せが従業員に一方的に押し付けられている、という現状も実態としてはある。そんな企業の雇用責任やワークシェアリングの是非などを問うていく、というのが番組の趣旨……なのですが、まあ予想通り議論は紛糾。特に後者の番組の方は生放送討論形式だったのですが、若手の自営業の人が「大変だけどやる気を出して頑張ればなんとかなるもんだ」と檄を飛ばせば、派遣の子が「あなたは世の中を知らなさすぎる」と一刀両断。あいかわらず議論のあおり方がうまいなぁと感心しながらも、まあどちらにも一理あるだけに悩ましい話だよな、と思ってしまったり。

      自営業からすると、会社という「組織」に依存する生き方をしている社会人が自立していないように見える、というのもまあわかる。実際、自営業はすべてが自己責任なわけで、景気が悪かろうとなんだろうと誰も助けてはくれない。だからこそ、派遣という仕事に甘んじて自己努力を怠っている(ように見える)人たちに対して、何を身勝手なことを言ってるんだと言いたくなる気持ちも生じる。昨今、ワーキングプアという言葉が流行っていますが、実際問題としてどれだけ仕事が忙しい、追い詰められているといっても、自己研鑽する時間が皆無かと厳しく問い詰められればきっとそうではない人が多いわけで、その辺をグサグサと「乱暴な理屈」で刺したくなる自営業の人の気持ちもまあ分かる、のですよね。(実際、この自営業の人自身もこの景気の悪さで苦労しているわけで、やり場のない怒りをそういう人たちにぶつけたい、というのもあったのかもしれませんし;。)

      企業というのは経済理論の中で動くロジカルモンスター。その中には情が介在する余地もなければ、将来の世界を安定させようなんていう高尚な意志も存在しない。だから、派遣の人たちを安価な道具とみなして酷使するシステムが簡単に出来上がってしまう。そこに歯止めをかけるのは政策であるべきはずで、長期的な社会の安定化のために、安易な企業の暴走を防ぐためのルールやシステムを構築しなければならない、のですよね。

      番組の中でも切りこんでいたのですが、派遣制度をはじめとする今のシステムの大きな問題点の一つに、学習システムが存在しない、という点が挙げられると思っています。これは派遣だけの問題ではなく、下請け会社(協力会社)への受発注問題もそうだし、売上偏重の企業論理などにも当てはまる問題なのですが、まあ簡単に言えば、今の多くの会社や組織は、「人を育てようという意識が希薄」、なのですね。例えば派遣労働に関して言えば、 

      • スキルを持っている人を、相応の割増コストを支払ってオンデマンドで雇っている。
      • つまり、すでにスキルを持っている人を雇っているのだから、教育は必要ない。

      というタテマエがある。つまり、派遣労働者に対してコストをかけて勉強させる必要はない、というのが採用する側の論理なのですよね。ところが現場の実態としては、派遣労働者に対して依頼する仕事がそれなりにレベルアップしてきてしまっているため、実態としては、派遣の人に対して教育コストをかけないと、結果としてコスト効率が上がらない。現場はその必要性を感じているのに、会社や組織がそのことを認めてくれないために教育コストを経費として落とせない、というジレンマがしばしば発生するのですよね。

      しかも上記の問題は、昨今だと、派遣のみならず正社員でも発生していることだったりもする。特に首都圏部だと人材の流動性(=転職容易性)があるために、お金をかけて教育した優秀な社員は簡単に辞めてしまう。そうなると、企業論理としてはかけたお金のリターンが得られない、という話になって、教育コストをケチるようになっていく。結果として、使えない・できない社員ばかりが沈殿物のように堆積していく、というデフレスパイラルに陥っていく、のですよね。

      結局、企業は単年度会計を求められている(=1 年単位での利益創出が求められる)以上、どうしても、長期的な会社の存続・成長の理屈よりも、現在の直近の利益創出のための、近視眼的なコストカットにばかり目が向いてしまう。けれどもそれは長期的には企業や社会を蝕むことになる。だからこそ、100% のコスト効率が出なかったとしても、人材育成の手を抜いてはいけない、のですよね。

      けれどもここで重要なのは、個人の意識としては、会社や組織に自分の身をゆだねてはならない、という点。つまり、会社が行ってくれる人材育成をうまく活用しながらも、その有無によらず、なにより自分自身でも勉強して、会社に依存しないで食っていけるだけのスキルを身につけることは絶対に必要、だと思うのですよね。例えば、明日、自分の会社や組織が潰れたりリストラされたりした場合でも、自分はきっとどっかには拾ってもらえるぐらいのスキルがある、そう思えるだけのスキルを身につけるように、日頃から自衛策として勉強することはものすごく当たり前に重要、だと思うのです。や、会社はあなたのことを絶対に守ってくれないのですし。

      • 企業が育てようとしないから、人が育たない。
      • 人が育とうとしないから、企業が育てない。

      たぶんこれが今の日本の実体なのですが、デッドロック状態に至っているこの状況を打破するためには、社会も手を打たなければならないし、個人も手を打たなければならない。どちらか一方だけに責任が転嫁されるのではなく、両方がきちんと手を打たないと、問題は改善していかないんだろうなぁ、と思ったりします。

      ……私ももっと後進の育成に力を入れないとなぁ;。いやホントに;;。

      ふう~、blog 書き終わり。といってもここの blog ではなくてお仕事関係の blog。 実は 8 月ぐらいからお仕事関係の blog を始めたのですが、さすがに複数の blog を同時に更新するのは結構な負荷。このサイトはまあ趣味な blog なので楽しいのですが、お仕事 blog は完全に仕事で有益な情報を発信するためのものとして作ったので、1 個のエントリ書くのに数時間は軽くかかるワナ;。mixi でアンケート取ってみたら、blog といいつつ Web 記事ぐらいのボリュームがあるので分割するなりなんなりして長く続けてほしい、なんていう意見もあったのですが、まあ確かにうまくやり方考えないときっと息切れするだろうなぁ、とは思ったり。(でもまあ半年ぐらい続いてはいるのですが^^)

      もともと仕事関係で blog を始めたきっかけは、書籍執筆以外の情報提供のチャネルを模索していたため。以前から blog をやったらどうか、というアイディアは出ていたのですが、なまじ下手に始めて炎上しようものなら取り返しもつかないわけで、組織的にも結構及び腰だったのですが、最近は空気が変わってきて、「まあとりあえずやってみ?」なモードに。そんなわけでやり始めてみたのですが、開始してから 1 か月たった頃にはすでに挫けそうに(苦笑)。いややはり大変だよなぁ、という。

      ただ、実際問題として仕事関係だと価値のある情報だと思ってくれない限りは継続的な購読者にはなってくれないし、そもそもライトな内容で読者を魅せ続けることの方がよほど難しい。なのでペースを落としても価値を失わないようなエントリを書き続けるしかない、と思って書き始めたのですが、やっぱり価値のある情報をきっちりまとめようと思うと、書籍程ではないにしても時間がかかるんですよね。それなりにかちっとした情報を、となるとだいたい 1 エントリあたり 3~4 時間ぐらい、下手すると 6 時間とかかかることもある。仕事関係といっても業務の一貫ではないので空いた時間や休日などを使って書いてるのですが、いやこれだと今のこのゆるぐだ blog を書くほうがよっぽどラクな気すら。

      にもかかわらず、それでもこの取り組みを続けようと思っているのは、専門技術の情報を届けようと思った場合、(少なくとも現在の仕組みの)書籍や出版というチャネルを使うのは非効率的だ、と感じているからなんですよね。そのように感じてしまう主な理由は以下の 2 つ。

      • 書籍の場合、購入者側が必要以上に「正確無比・完全無欠」な情報を求めてしまう傾向がある。
      • 出版ビジネスは、結局はコンテンツビジネスではなくチャネルビジネスである。

      まず一点目について。私は今まで 8 冊ぐらいの書籍を出版しているのですが、今まで出版社の人とやり取りしたり、あるいは読者の方々から受けたフィードバックなどを元に総じて言うと、「書籍に書かれている情報には誤りがあってはならない」という思い込みがあるように思うんですよね。実際には情報は陳腐化していくものだし、100% ミスのない書籍を書くことなど事実上不可能なわけで、そこに対するプレッシャーが必要以上に強いと、そもそも書籍を書く意欲や気力がそがれる。特に書籍の場合、校正や修正時の編集さんとのやり取りのオーパヘッドが異様に大きいので、重箱の隅をつつくような修正をちまちまと求められると、正直かなり精神的に疲れる、というのがあります。(っつーかぶっちゃけ同人誌のように自力で版下原稿作って修正しちゃった方が圧倒的にラクなんだけど、みたいなところが;;)

      そして二点目。これは非常に重要なことなのですが、出版業界って、基本的にはコンテンツビジネスではなくて、チャネルビジネスなんですよね。分かりやすくいうと、書籍に書かれている内容に基づいて価格が決まるのではなくて、ページ数に基づいて価格が決まる。これは私も実は実際に書籍を出版してみてびっくりしたのですが、版下の作り方を変えてもらったところ、書籍の製作費が数百万円単位で低減できた → 書籍の定価が 1,000 円近く安くなってびっくり;。今までの経緯と内容を考えると 1,000 円高くても十分売れるだろうと自分は踏んでいたのですが、え゛ー、というか今までの価格設定はなんだったんだー、とツッコミを入れたくなってしまったり。まあこれはもっと身近な例で言えば、良作だろうと駄作だろうとコミックスは一律 450 円、みたいな話。要するに、大手の出版社といえど、やってることは同人誌を印刷してる印刷所と実は大差がなくて(違う点は執筆者~印刷~配送~書店というチャネルを押さえている点のみ)、とにかく総印刷ページ数を増やすか発行部数を増やすかしないと儲からない仕組みになってるんですね。

      でも、多くの書籍はそれ単体で儲けが出るほど売れるわけではない。特に専門書の場合は 1 万冊も出たらベストセラーですが、一方では 1,000 冊以下なんて本もごろごろしていて、ぶっちゃけ同人誌と何が違うんだ状態な本がたくさんある。自分がやってた昔の同人誌だって 400 冊ぐらいは印刷してたわけで;、数千冊程度の書籍では雀の涙のような印税しか出てこない。にもかかわらず、敢えて書籍を書く理由は、結局、広く書店に並べるという、出版社が持っている販売チャネルを使いたいから、なんですよね。(この構図はテレビアニメとテレビ局の構図と同じ;)

      # その昔、マンガは紙を売るためのおまけだ、と言われた時代もあったそうですが、
      # ある意味象徴的なセリフかも。ちなみにこの点については、とらのあななどの同人誌
      # ショップというのは印刷と販売チャネルとが明確にに分離されているモデルになってて、
      # ある意味では健全な側面を持ってますね。

      もちろん出版業界に関しては、昨今多少は改善の兆しがあるようには思うものの、まだまだ旧来のビジネスモデル(チャネルビジネスモデル)ベースで動いているというのがおそらくは実態。となると、出版社が持っているチャネルを利用しようと思う側の人間(=コンテンツを提供する側)からすると、もしそれ以外のチャネルで有効なものがあるのならそちらに乗り移るのは当然の話。コミックスの場合にはそれが同人誌(コミケット)というチャネルだったわけですが、では専門技術情報の場合には? となると、やぱりインターネット、という話に。それで blog というチャネルを使い始めたのですが、……まあこれはこれでやっぱり大変だなぁ、という感じが。

      まあ要するに、blog にしろ書籍にしろ、情報提供の手段をうまく使い分ければよい、という話なのですが、 blog に関してはチャネルの特性がまだ体感的にわかっていないところがあるのでもう少しいろいろ試してみる予定。特にいいなぁと思うのは、やはり読者の反応が直接見られるというところ。ページビューだけでは読者の評価が完全に分からないところがありますが、

      ページビューに加えてソーシャルブックマークをあわせると、情報に対するニーズと評価がほぼ的確に分かる。

      というところが特に便利。どのへんに情報ニーズがあるのか少しずつ分かってきたのですが、もうちょっと続けて様子を見てみたいものだなぁとは思ったりします。

      いやはや、久しぶりにとんでもない本を読みました……。

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      無農薬でリンゴを育てるという偉業を成し遂げた、青森の農家の木村氏の軌跡を描いたノンフィクション作品。もともとは 2006 年に NHK のプロフェッショナル・仕事の流儀で採り上げられた方なのだそうですが、その挑戦を本にしようという企画が持ち上がり、ノンフィクション作家である石川氏がインタビューを重ね、一冊の本にまとめたのがこの本。

      私は先日のホームパーティでこの NHK のビデオを拝見させていただいたのですが、興味が湧いてこの本を読んでみたら、これがもうとにかくとんでもない一冊としかいいようがなくて、読み始めたら全く止まらず、仕事そっちのけで 2 回繰り返して読んでしまったほど。今まで巡り合ってきた数々の良著の中でも、5 本の指に入るんじゃないだろうか、というぐらいの素晴らしい一冊でした。

      そもそも奇跡のリンゴとは何なのか?

      私は全く知らなかったのですが、リンゴというのは害虫や病気に極端に弱い作物なんだとか。我々が普段接しているリンゴは昔から自然界に存在してきたリンゴではなく、19 世紀に入ってから品種改良を重ねて、実を大きく甘みを強くしてきたもの。その過程で農薬が大量に使われ、結果として現在のリンゴは害虫や病気に極度に弱い作物になってしまったのだとか。もちろん木村氏もかつては農薬や肥料を使ってりんごを育てていたものの、奥さんが極端に農薬に弱い体質であったことや、農薬で皮膚がかぶれたこと、本で無農薬栽培の話を知ったことなどをきっかけに、農薬を使わないりんごの自然栽培に挑戦し始めることになる。

      ところがりんごを農薬も肥料もなしで育てるのは、実際には狂気の沙汰に近い。確かに稲や麦、あるいは他の果物では無農薬栽培に成功している作物はかなりある。けれどもりんごに関しては前述のような理由もあり、無農薬栽培に挑戦し始めるとあっという間にりんご畑が荒れていく。病気や害虫にやられ、次々と枯れていくりんごの木。3 年たっても 4 年たってもリンゴは全く実らず、木村家の一家は極貧生活を強いられることになる。それでもなお木村氏は、無農薬栽培への挑戦をどうしても捨てられない。なまじ他の作物では成功しているだけに、りんごの無農薬栽培の夢を諦められず、どん底への一本道を突き進んでいく。周りからどんなに窘められても決して首を縦には振れない。

      ありとあらゆる農薬のかわりを探し、肥料もすべて変え、やるべきことはすべてやり尽くしたにもかかわらず、悪化する一方のリンゴ畑。家族をこれほどまでに困窮させ、万策尽きてもなお夢を諦められない木村氏は、6 年目の夏、ついに自殺を決意する。ロープを片手に山に登り、山奥に踏み入っていよいよ意を決しようとしたとき、ふとそこにあった木に目が止まる。なぜこの山の木は、農薬も全くなしにこれだけ葉を青々と茂らせ、実をたわわに実らせているのか? 決定的に違ったこと、それは地面と土。雑草は生え放題、地面は足が沈むくらいにふかふかの土。けれどもそこに、山の木は力強く根を張りめぐらせている。彼はそこに、自らの考え方の根本的な誤りを見出す。

      そもそもリンゴが虫や病気にやられてしまうのは、リンゴの木が弱ってしまっているため。確かに農薬はいとも簡単にそれらを片付けてくれるけれども、それはリンゴの生命力を削ぐことに他ならない。山の中の木だって病気や害虫の攻撃にさらされているはずなのになぜ元気でいられるのか? それは山の中の木そのものが本来的な生命力を持っているため。掘っても掘ってもやわらかく温かい土は、自然の生態系が作り出した賜物であり、その生態系の中に山の木が力強く根を張り、そして生きている。リンゴが本来の生命としての力の強さを取り戻す、その手伝いをしなければならないということに木村氏は気づく。

      そして彼は、複雑で自律した自然の生態系を、自らのりんご畑で再現することに腐心する。もちろん、今のりんごは自然のものではないため、独自の生態系を作りだす必要がある。そのために、彼は今まで重ねてきた、研究者顔負けの独自の研究をさらに深め、発展させていく。雑草を敢えて伸び放題にすると、雑草が土を耕してくれる。農薬のない彼の畑には自然と虫たちが集まってきて、豊かな生態系が生まれてくる。害虫を食べる益虫も繁殖するため、害虫被害も大きくならない。さらに葉の表面には大量の菌が繁殖するようになり、病気の発生も抑えられるようになる。そのバランスが崩れそうになったときにのみ、害虫の卵を手で取ったり、病気を防ぐために酢酸を散布する。そしてそれを繰り返し、ついに 8 年目の春、彼のりんご畑に一面の花が咲き乱れる。……というお話なのですが。

      もうこれがホントにとんでもなくすごいのですよ。
      なんつーか、もう壮絶というか、とにかく感動するとしか言いようが。

      木村氏が絶望の淵に見つけたもの、それは発想の転換。もともと木村氏は、トラクターをはじめとする農業の効率化に非常に興味を持っていて、作物は自分が制御して育てるものだという発想からなかなか抜け出せなかった。結果としてリンゴについても、どうやったらリンゴを無農薬で育てられるのか、ということばかり考えていた。けれども、そもそも自然ってそういうものじゃないよね、ということに気付いたところから、木村氏の発想の転換が始まっていく。

      「リンゴの木は、リンゴの木だけで生きているわけではない。
      周りの自然の中で、生かされている生き物なわけだ。
      人間もそうなんだよ。人間はそのことを忘れてしまって、自分独りで生きていると思っている。
      そしていつの間にか、自分が栽培している作物も、そういうもんだと思いこむようになったんだな。
      農薬を使うことのいちばんの問題は、ほんとうはそこのところにあるんだよ。」

      見方を変えた瞬間に、今まで全く見えなかったものが次々と見えるようになっていく。自分が探していたものが、結局は農薬の代替品であり、やろうとしていたことが以前とまったく変わっていなかったこと。無数の生き物の活動によって生み出され、複雑に絡み合ってバランスしあう生態系、それこそが、りんごにとって最も育ちやすく、りんごが最も健康でいられる環境であること。そして、自分が影からいろんな人たちに支えられてここまでたどり着くことが出来たということ。

      「人間にできることなんて、そんなたいしたことじゃないんだよ。
      みんなは、木村はよく頑張ったっていうけどさ、私じゃない、リンゴの木が頑張ったんだよ。
      …(中略)…
      畑を埋め尽くした満開の花を見て、私はつくづくそのことを思い知ったの。
      この花を咲かせたのは私ではない。リンゴの木なんだとな。
      主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。」

      そしてさらに驚くのは、木村氏はその技術をすべてオープンにし、さらにそのりんごも一般的なリンゴの値段から決して釣り上げようとしないこと。これだけマスコミにも取り上げられ有名になったこのリンゴは、その味や希少価値を考えればいくらでも値段を釣り上げられるに違いない。にもかかわらず、木村氏は頑なにそれをしない。技術はすべてオープンにし、必要があればほぼ無償で全国各地、さらには海外へも足を運んで自らの技術を伝えようとする。無農薬・無肥料の作物を贅沢品とするのではなく、いつかそれが当たり前の品になることを夢見て、日々努力を重ねていく。その生き様は、ホンモノとしか言いようがない。

      ノンフィクション作家である石川氏の筆致の素晴らしさもあるものの、それを差し引いても、行間から伝わってくる木村氏の人柄の良さと情熱と想いに感動させられっぱなしになることしきり。そしてなにより、その心意気もさることながら、恐ろしいほどの努力家であり研究家であることにも唸らされます。リンゴにかかわることなら知らないことは何もない、というぐらいに、リンゴだけのことに留まらず、害虫や益虫、細菌や病気に博識で、さらには独自に研究を繰り返し、新たな栽培方法を模索し続ける。

      NHK のプロフェッショナル・仕事の流儀に出演した木村氏は、プロフェッショナルとは何か?という問いかけに対してこう答えました。

      「技術も心も一緒に伴った人が、プロじゃないでしょうか。」

      地獄を見て、そこから這い上がってきた経験を持つからこそ言える、重みのあるひと言。絶対に不可能と言われてきたリンゴの無農薬栽培を実現するという偉業を達しながらも、穏やかで温和なその表情には、本当に頭が下がる思いがします。ぜひ一度、読んでみてほしい一冊です。

      なんか今日はエントリ書く気が起こらないのでワンパスで;。

      甘い顔するのはラクだけど、刺さなきゃいけないときもあるんですよねぇ、世の中;。
      わかってもらえないときの方が多いけど、わかってもらいたくて書いてしまうこともある。

      刺された方も痛いけど、刺す方も痛い。こういうのは何度やってもヤなもんですね....orz
      わかってくれることを期待しつつ。

      というわけで、今年 2008 年もいよいよ残すところあとわずか。毎年の大みそかにはその年一年を振り返ってみて、ちょっぴり真面目エントリを書くのが自分ルールになっているので、今年も一年を振り返りつつ、つらつら~っといろんなことを書いてみたり。 (← こういうのを定期的に残しておくと、過去ログ読み返してみてかなり面白いのですよ^^)

      今年はいろんな意味で、自分の世界が広がった一年間だったなぁと思ったり。大きなところとしては、4 月には杭打ちボランティア、8 月には小学校のボランティア、そして 11 月には学生時代のバイト先の塾の 25 周年記念懇親会、そして年間通しての ECO(笑)。かなり無理もしてきたので体力的にもよく続いたなぁという気がしなくもないですが(苦笑)、新しい友人たち、尊敬できる人たちとの出会い、そして交流。仕事のやり方も、数年前とは全く違うスタイルに変わった気がするし、ボランティアなんて、数年前の自分だったら進んでやろうなんて絶対に思わなかった……というか、めんどいという気持ちに体のいい言い訳をくっつけて辞退していたんじゃないかと思うんですよね。けれども、率先してそういうものにも参加するようになって、随分と自分がいい方向に変わったなぁと思う瞬間があります。

      そして振りかえってみると、それらを下支えしてきたのが、一昨年に自分の中で決めた自分ルール「自分を物語の主人公にしない」だったように思うんですね。

      少し前に読んだビジネス書の中に、"Servant Leadership" という言葉がありました。直訳すると、「奴隷リーダシップ」……って、リーダなのに奴隷ってなんじゃらほい? という感じかもしれませんが、この概念って非常に重要だと思うのです。どういうことかというと、リーダシップというのは結果としての状態(=みんながその人についていきたくなるような状態)を指す言葉であって、能力や権限のことを指す言葉ではない。自分でも今までずーっと不思議だったのですが、私自身は昔から、誰かの人の上に積極的に立ちたいと思っているわけではないのに(← これはホント;)、なぜか結果的に班長やったり、いいんちょやったりしてる;。自分では内心「どんだけ罰ゲーム;」とか思ってて、そこに「自分が内心で思ってることと実態としての自分の実情」の間にねじれを感じていたのですが、みんなのために何かをすることが、結果的にその状況を作り出している、ということに気付いて、結構、目から鱗が落ちた記憶があります。なるほど、世で言うところの「リーダ」って、誰かの上に立って強権発動する人じゃない。むしろ奴隷みたいにへこへこするようなリーダっぽくない人の方が、みんなで幸せになれるんだよね、と。

      今年は祖母が息を引き取ったのですが、人間っていずれは死ぬわけですし、いずれは主役を次の世代に移していかなくちゃいけない。だから、そもそも理論的に考えても、自分が主人公であり続けることなんてできるはずがない。いや、もちろん自分はずっと現役で引退するつもりなんてさらさらない(笑)のですが、主役や主人公である必要性はない、と思うのです。「場」を作る人、という表現をすると分かりやすいのかもしれませんが、昨晩、好例の塾の忘年会にちょろっと顔を出してみて、現役世代の講師陣がホントに楽しそうにバカ騒ぎしている様子を見て、ああ、こういうことだよなぁと感じる瞬間がある。

      努力の方向性として、自分が唯一のナンバーワンになるのではなく、みんなを唯一のオンリーワンの主役にするために頑張る。そういう方向の努力があってもいいと思うのですね。

      そしてそういう努力は、必ず善意で返してくれる人がいて、そういう気持ちを受け取ったりもらえたりする瞬間があると、やっぱりますます頑張ろうっていう気持ちになる。今年一年間を振り返ってみると、いろんな人の「善意」が嬉しかった一年間、だったように思うんですよね。(多分、年齢的にそういう善意を素直に受け止められるようになったからだと思うのですが) やっぱり一人身なので正直寂しい瞬間もありますが(← この辺は今年は多少素直(笑))、でも、なにより恩返しとフォローの永久機関は、やっぱりいいと思うのですよ^^。

      ふと思い立ったので自分でいつのことだったか調べ返してみたのですが、今の自分に至るきっかけはこの人との出会い。多分、当の本人はまったく気付いていないと思うのですが^^、この気付きを与えてくれたこの人には、心からの感謝を。おそらくこれがなかったら、今の自分はなかったと思えるだけに、本当によいきっかけを与えてもらったと思うんですよね。

      あれから 2 年ちょい、いろんなことがあったなぁ……、と。
      来年はどんな一年間になるかわからないけれども、自分の進んでいる道は間違ってないなと思える瞬間がある。

      もっと、さらなる高みへ。まだまだやれるはず。来年もまた頑張っていこうと思います。
      というわけで、みなさん 2008 年おつかれさまでした! また来年も、よろしくお願いしますw。

      # って、ああああ、ECO のアイテムチケットの利用期限、今日までだったよ;;。あぶないあぶない;。
      # ……と、このあたりはたぶん来年もまったく変わらないと思います。(笑)

      えーと、すいません今日は毒入りエントリです;。今朝、つらつらとテレビを見てたらこんな話題が。

      これ、何かというと、岐阜の市立岐阜商業高校を立命館に移管することで、20~30 億円かかるとみられる公舎の建て替えを立命館に担ってもらおうとするプロジェクトが頓挫した、という話。財政面では魅力的な提案であり、かつ少子化による高校再編の流れを鑑みれば移管自体は合理的な選択肢で、当初、岐阜市長は「100年に1度のチャンス」とまで称して、岐阜市長がこれを推進。実際、そもそも岐阜県内の学校の運営費用すら岐阜県だけで賄うことができないような状況では公舎の建て替えなどできるはずもなく、立命館からの提案はまさに願ったり叶ったりの提案……なのですが、しかし母校を失うことになる OB/OG などからの反発が強く、岐阜県内でも意見が二つに分かれて対立状態に。結果的には今日の市議会で市立岐阜商業高校の廃止そのものが否決され、市長が辞任することで民意を問う流れになった、という顛末。

      ……なのですが。
      この話、私としては「心情的には理解できるけれども、それはわがままなんじゃない?」と思うのです。

      もちろん仔細を知らないし、土地と公舎については無償譲渡、といったキナ臭さがないわけではない。なのでわがままだと断定するには全く証拠不十分なのですが、問題なのは現実的に学校の存続のための資金をどうやって捻出するのかという話。反対している人たちとて、自分の私財を削って数十億円を捻出しろという話になったら絶対に無理、だと思うのですよね。手順を踏まなかった & 心情面に対する配慮が足りなかった市長や市議会にはそれ相応の責任が追及されてしかるべきだし、プロセスの透明化は当然行うべきだし、立命館との契約条件もきちんと見直すべき。けれどもそれ以前の問題として、建て替えコストをねん出できない学校を存続させようということ自体が、そもそも経済原理に反している。つまり、存続させるかどうかが問題なのではなくて、どうやって存続させるのかが問題なのに、「存続させることが決まりました(ただしどうやってかは未定)」、なんて、そりゃさすがにむちゃすぎる、と思うのです;。

      実は同様のことをよく感じる話題として、地域格差問題があります。この話は以前、コンパクトシティ構想の話の中で取り上げたのですが、地方衰退の問題に関して、「今の暮らしは変えたくない、けれども生活水準は上げてほしい」というのはどう考えても甘えの構図。どちらにも共通する話は、要するにこういうことなのです。

      • 少子化の流れの中で、母校を存続させたいという思いは「ぜいたく」
      • 都市部への一極集中の時代の流れの中で、地方に住み続けたいという思いは「ぜいたく」

      ここでいう「ぜいたく」というのは、確かにそれだけみればささやかな願いにも見えるけど、半面、それが経済原理的に見ると限りなく贅沢になっている、というもの。そのコストが自分たちで払えないにもかかわらず、「母校を存続させてほしい」「自分たちの住む地方をなんとかして欲しい」というのは無茶な話。そのために必要なお金は払えないのに、数の暴力で自分たちの要望を押し通そうとするのは、やっぱり「わがまま」じゃないかと思うのです。

      # 正直、私はこういう類の「わがまま」を見てるとホントにイヤな気分になるのです><。
      # その人たちの気持ちもわかるけど、そういうわがままを押し通そうとすること自体がものすごくイヤなのですよね。

      生きていればどーにもならないことは実際あるわけで、私もその昔、生まれ育った生家を引き払って今の実家に移るときにやはりいろんな意味で寂しさを感じたものだし、自分の両親などは母校がすでにない。そういうふうに諦めなくちゃどーにもならないことなんて、世の中には山ほどある。気持ちの問題と、経済原理の問題とを混同して論じることは、問題の先送りにしかならないわけで、どんなに悲しくても寂しくても、今やらなくちゃいけないことはきっとたくさんあるはず。この話、心情的なものはいろいろあるでしょうけれども、建設的な議論に話が発展することを望まずにはいられません。うまいところに話が落ちてくれるといいんですけどねぇ……;。

      さてさて、今日は先日、Web 拍手のエントリを読んでて思わず苦笑いしてしまった話を一つ。

      > ECOの話題は正直いらないので、この手の話をもっと増やしてください

      www。って、笑ってる場合じゃないですか^^。ちなみにこの Web 拍手がついていたのは先日の「マルコフニコフ則。」のエントリなんですが、いやいや思わず苦笑いしてしまったり。というわけで、リクエストにお答えしまして、ちょっぴり真面目なエントリを書いてみるテスト。

      この Web 拍手を読んだときに、私が真っ先に思ったのは、この Web 拍手をしてくださった方は匿名じゃなくても同じことを面と向かって言えるのだろうか、ということ。おそらく普通の感覚を持った人なら、少なくとももうちょっと言い方は考えるだろう、と思うんですよね。

      もしこの Web 拍手に、売り言葉に買い言葉で応酬するなら、別にあなたのために blog を書いてるわけじゃない、とか、別に無理して読んでもらわなくても結構、となってしまう。実際、趣味でやってる個人の blog に注文つけるなんて常識的に考えてもどうかしてるし、読み手には読む自由と共に読まない自由があるわけで、読みたいエントリだけ拾って読めばいいじゃん、それを書き手の方に押し付けるなんてあなたどんだけ偉いんですか;、という話になるわけです。

      でも、たぶんこの Web 拍手を入れてくださった方は、私がこんなこと書いたらめちゃめちゃ怒る、と思うのですよ。ちょ、お前、読者様に向かって何言ってやがりますか;、と。もうこうなってくるとただの不毛な言い争いにしかならない。つまり、お互いが自分にとっての正論をぶちまけても、誰もハッピーにならないんですよね。

      blog を例にとるのなら、書き手側である私にとっては、

      • blog は私が個人的な趣味で好き勝手にやってること。特に ECO のエントリ書くの楽しいww。(← 自分的正論)
      • だけれども、せっかく読んでくれてる人がいるんなら、出来る限りは読み手のことも考えて書きたい。(← 読み手に対する気遣い)

      という 2 つの話がある。そして読み手側である人にとっては、

      • 自分の貴重な時間を割いて、わざわざ読んでる。自分にとって価値がないエントリなんて読みたくない。(← 自分的正論)
      • けれども、書き手もそれなりに時間を費やして書いてるわけだから、あんまり身勝手なお願いをするわけにもいかない。(← 書き手に対する気遣い)

      という 2 つの話がある。お互いが自分にとっての正論をぶつけ合うと、

      「ECOの話題は正直いらないので、この手の話をもっと増やしてください。」
      「っつーか読みたくなきゃうちのサイト来るなよ。」

      という素敵なケンカ状態になってしまう。けれども、お互いがお互いの事情や心情を慮れば、

      「ECO の話題も楽しいんですけど、自分的にはこの手の話ももっと増やしてもらえると嬉しいですね~。」
      「んー、そうですか^^。まあじゃあもうちょい増やしますかねー。」

      という流れになって、要求を受け入れやすくなる。自分の感情を中心にして相手にストレートにぶつけてしまっては、ケンカになるばかりか、結果的に自分の要望を全く受け入れてもらえないんですよね。

      # ちなみに、ECO の話題が楽しいなんて思ってない場合にはそんなこと書けない、という人もいると
      # 思いますが、そういう場合は ECO の話に触れないか、または話題の幅が広いのは嬉しいんですが、
      # みたいな書き方をすればよい話。

      簡単に言えば、相手の立場や心情を慮った上で、相手が受け入れやすいような形でコミュニケーションを取る。これは特にビジネスの場におけるネゴシエーション能力の根幹をなす要素の一つですが、自分の気持ちよりも結果を優先させて物事を考えることはビジネスの上ではものすごーく重要。自分の感情だとかプライド(という名前の見栄)だとかが邪魔をしてそれができない人は少なくないのですが、いやー、それでは思うような結果は得られないよ??と思うことはよくあったりします。

      # ……などと偉そうなことを書いてますが、自分もそんなにうまくはないです;。

      とまあいろいろ書いてますが、ちなみになぜ私が雑感系のエントリをあんまり書かないかというと、ああいうエントリとかこういうエントリばっかり書いてるとお説教 blog になっちゃうからです;。基本的に、こういう話って自分で気付くように努力することが大切なのだと思ってて、こういう話ばっかり情報発信したくない、ってのがそもそもの理由にあったりします。や、自分は適度にゆる~~い blog (でもたまに真面目な話もある)の方が気楽で好きなのですよ、ええ。

      ふう~、というわけでようやく週末。喪中ハガキの準備とかいろいろタスク山積みとはいえ、とりあえず ECO の買い取りゴーレムは仕掛けたのでとりあえず一日放置^^。今日もあとでお仕事行かなくちゃ><、状態なのですが、平日がどうにも忙しくて隣に座っているマネージャと話したときのこと。

      「今期、売上かなりショートしてるんだよねぇ。」
      「でもむちゃくちゃ忙しいんですけど><。正直そのうち倒れるんじゃないかと;;。」
      「いや~、健康には気をつけてね、倒れても誰も見てくれないから。」

      ちょwww、マネージャとしてその発言はどうかと(笑)。まあお互い冗談言える立場なのでこんな軽口が出るわけですが、問題なのはこの次。

      「なかなか仕事を振りたくても、振り先がないんですよねぇ。」
      「手が空いてる人を使ってもらえると嬉しいんだけど。」
      「いやそうはいうけど、ぜんぜんスキル持ってない人じゃ仕事振れないですよ;。」
      「そういう人たちを使うことが期待されてるだけどなー。」
      「……あのー、だから内部講習会とかやってるわけじゃないですか自分。
      でも、やる気のない人とか手の空いてるときに勉強しないような人じゃ正直限度がありますよ。」
      「そういう人たちをなんとかしてほしいんだけどねぇ。」
      「いや、マネージャじゃない私じゃ強権発動もしようがないんですけど;。
      癒しキャラだけじゃなくて、ちゃんと言うとこは言ってくださいよー。」

      以下略(苦笑)。まあ、マネージャとしては部下に嫌われては話にならないので、適度な距離を取りつつコミュニケーションを取る、というのが鉄則ではあるのですが、売上が行っていない人(← 私の組織は基本的に個人単位で売り上げ管理がされている)が、仕事がない状況のときにのほほんと「いや~、仕事ないんですよねぇ」と平気で 6 時とかに帰っちゃう姿を見るとさすがに頭を抱えずにはいられない;。そういう人たちだと、仕事を振ろうとすると「キャッチアップの時間がないのでその仕事はちょっと受けられません」とかさらに頭を抱えるセリフを言ったりする。ちょww、どんだけ甘えてやがりますかこの人は、状態に;;。

      サブプライム問題に端を発した今回の不景気。どこのお客さんもプロジェクト凍結、予算一律カットは当たり前の世界。お客さんが持っているお金や予算が少なくなれば、支払に対してそれだけシビアになり、少ない金額で高い成果をすぐ出してくれる人や会社にお金を支払いたくなるのは当然の流れ。がしかし、いわゆる学生気分の抜けないサラリーマン気質な人の場合、育成から仕事の用意、さらにはそこでの成功まで会社やマネージャがおぜん立てしてくれるというとんでもない勘違いがある。いや、もちろん真っ向からそんなことを思っている人は皆無でしょうが、少なくともやってる行動はそういう勘違いさんと全く変わらないという人はものすごく多い、のですよね;。

      要するに、「甘えている」「学生気分から抜けてない」「自立してない」という話なのですが、そうなってくると問題なのは、貧富の差がますます拡大する、ということ。化学の世界(有機化学)には、マルコフニコフ則という面白い経験則があります。これ、「富めるものはますます富み、貧するものはますます貧する」というものなのですが、昨今のビジネス環境はまさにこれ。要するに、仕事ができる人のところにしか仕事が来なくなる、のですね;。限られたお金の流れが一点集中してしまうので、格差がますます増長される傾向に;;。口を開けてひなどりのように仕事待つのはやめてくれ~~、と言いたくなるわけです;;。

      私は常々、後輩の人たちには「時間が空いてるときにはとにかく勉強したほうがいい、遊ぶにしても自己研鑽につながるものがよい」という話をするようにしているのですが、実際に危機感をもって自己研鑽ができるような人はホントに少ない;。勉強することに終わりはないわけで、いい大学に入ったら、いい会社に入ったらそれでもう勉強しなくていい、なんて話は全くない。っつーか、定年退職するまではどんな人だって勉強し続けなくちゃいけないわけです><。

      今の世の中、確かに格差は広がっているわけですが、そうだからこそ頑張らないと、中流にすら残れない。今の時代は若者の世代が怠け、その親たちの世代が築き上げてきた過去の資産を食いつぶすことによって食いつないでいるような状況じゃないかと思うのですが、それもいつまで続くことやら;。書いていて「どよ~ん;」とした気分になってくるのですが、後輩たちを見ていると、ホントもっと頑張ってくれないかなぁ;、と思ったりします。まあ、そんな簡単にいかないことは百も理解はしているのですが;;。

      と、さて blog も書いたことだし、ぼちぼち出かけますか....^^ いろいろ書くネタはあるんですがなかなか書いてる暇が~;;。ううっ。

      ふう~、というわけでなんか妙に忙しい今日この頃。世間的には三連休らしいですが、それってタベラレマスカ状態。先週の懇親会準備のために仕事のバックログが溜まり気味だったところに、ついうっかり案件が取れてしまうワナ;。……こりゃ 12 月は休みないかも~(涙)、な状態なのですが、とはいえ今の時代、仕事があるだけかなりマシ、と思わなくちゃいけないのかも、ですね;;。

      とまあそれはともかく、先日、人事部の人からびっくりメールが;。なんでも昨年の新人君たちのメンターで一番頑張った人(?)に与えられる賞が今年から新設されたらしく、その栄えある第一回にあなたが選ばれました! というメールだったのですが。

      ……いやちょっとマテ。
      そもそもその学年、私はメンターしてないんですけど;;。(ぉ;)

      っつーかさすがに「???」となってしまうワナ;。まあ実際のところ、その学年の子たちとは割と仲良くやっていて、自主的に夜の時間帯を使って講習会をやったり、彼らから意見を吸い上げて今年の新人君たちのカリキュラムに反映させたりはしていたのですが、これはあくまで私がおせっかい趣味の範囲でやっていた話;。人事部に確認取ってみたところ、自分のマネージャと部門長の両方が承認してて、実際、新人君からもノミネーションがあったので人事部的には何にも疑わなかったらしいのですが、いやいやさすがに正式にアサインされてるメンターさんたちを差し置いて受賞しちゃうのはまずくないか?? と思った次第;。

      # っつーかですね、そもそも自分がメンターを担当した人はことごとく退社しているというワナ;。
      # ある新人君が退社間際に言ったセリフは、「自分はまちばりさんみたいに情熱を持って頑張れません。」
      # ……いやいや、新人1年生でそれを判断するのはさすがに時期尚早だろうと小一時間;;。

      最終的には受賞することにはなったのですが、その過程の中でマネージャさんから言われたのは、むしろメンターじゃないにもかかわらずそこまでやってくれたことを評価したい、という話。確かに言われてみると、自分の会社は中途採用が多いせいか新人君を育成しようという気概に欠ける面があって、めんどいことはやらないというサラリーマン文化がある。けれども新人君たちの育成はめっちゃ重要で、組織にとってどうこう、という話だけでなく、文化の異なる若い人たちと接することで、彼らの文化を感じることもできるし、自分がフレッシュであり続けるためにもものすごく重要、だと思うんですよね。

      結局のところ、職責範囲を超えた仕事を思いつくままにやれるかどうか、という話なのですが、新人の育成やオフィス環境の改善といった作業は、一見すると雑務のように見えながらも実は非常に重要な仕事。もっと多くの人がそういう意識を持ってくれると組織はもっとよくなっていくんでしょうが、実際にはなかなかそういうのも難しいのかもしれませんね;;。

      ふう~;、昨日は朝からミーティング → 遠方から出てきたおともだちとおしゃべり → お仕事に戻る → 塾の25周年パーティの打ち合わせ → 飲み → そのままばたんきゅ~、という素敵コンボだったのですが^^、やはりいろんな人としゃべっているとホントに触発されるなぁと改めて思ったり。やっぱり頑張ってる人とか努力してる人、それでいながら気遣いができる人とかと接すると、ホントに勉強になるというか自分が情けなくなる;;のですが(← 大いに反省しろ自分;orz)、改めて思ってしまったのが、やっぱりそういう人たちって、ある種、仕事を選ばないところがあるんだよなぁ、ということ。

      仕事を選ばない、と書くとちょっと(というかかなり)語弊があるのですが、要するに、「大切だと思った/思える仕事であれば、その仕事の価値を問わずに積極的にやる」という心意気があるかどうか、という話。ものすごく冷徹に書いてしまうと、やはり仕事というのには経済的価値とでも呼ぶべき「単価」が厳然として存在していて、いくら「仕事に貴賎なし」だとしても、経済的価値はどうしても同じにならない。結果として、単価が安い仕事(=めんどい雑務)はボクの仕事じゃないとばかりにやりたがらない人が多いものですが、概してそういう仕事を嫌う人の中には、凄い人や素敵な人というのはまずいない、んですよね。

      自分の会社でよく出てくる言葉に、「積極的に三遊間ゴロを拾う人」という表現があるのですが、そういう人ほど実際には仕事ができるし、人にも気遣いができる。それはおそらく、そもそも三遊間にゴロが転がってきているのに気づける人であり、しかもそれを取りに行こうという気概のある人だから、だと思うのですが、実際には、そういう隙間にある仕事こそが仕事の本流、でもあるんですよね。仕事の価値は経済的価値ではなく、その仕事をやるべきかどうか、その一点で決まるし、そういう仕事は(仮に経済的価値がなくても)価値がある重要なもの。もちろん日銭を稼ぐという意味で経済的価値は無視しちゃいけませんが;、なにかとふと腰引け状態になってしまうこともあるだけに、やるべきことをちゃんとやる熱意や情熱を持ち続けなくちゃ、なんですよねぇ。

      最近は何かと反省することしきりな毎日ではあるんですが、改めて頑張らないとなぁ……と思う今日この頃です。はい;。

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