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精神(Mental)

というわけで、でじくま氏におすすめされてこちらの映画をさくっと鑑賞。

20090712

「精神」という映画。現在、東京では渋谷のシアター・イメージフォーラムという映画館でのみ単館上映されている作品なのですが、従来日本ではタブー視されていた精神科に焦点を当て、こころの病と向き合う人々がおりなす悲喜こもごものドラマを、ドキュメンタリーとして描き出した作品。驚くのは、医師のみならず患者さんまでもがモザイク一切なしで登場していること、そしてコメンタリーなどの一切がなく、あくまで淡々と、医師と患者さんたち、そしてそれに関わる回りの人々の日常をフィルムに描き出しているという点。監督いわく、「観察映画」だそうで、「言いたいこと=メッセージも、明確な結論もない」、とのことですが(とはいえ構成や編集でそれなりに考えはにじみ出てしまうようにも思いますが)、いずれにしても、観客一人一人が様々な想いや考えを馳せることができるように構成されているフィルム、だったりします。

さて、はたしてこのフィルムに対してどうコメントすべきか……というのは正直迷うところで;、ノンフィクションであるだけに、多くの blog では自分の意見についてはコメントを控えている様子;。内容的にも非常にナイーブなことなので、書くべきか迷ったのですが、敢えてコメントしてみようと思います。気分を害される方もいるかと思いますので、その辺をご承知置きして読める方だけどうぞ。(文字も反転しておきたいと思います。)

まず、鑑賞直後の正直な感想を言うと、あのラストの構成はあんまりだ;、と思いました。監督は「観察映画」、つまり言いたい事もメッセージもない、と言っているけれども、あのラストでは悪印象ばかりが際立ってしまうじゃないか、と思ってしまったり。読後感の悪さはまるでエヴァ旧劇場版。意図があったかどうかはわかりませんが、少なからず作為的なものを感じずにはいられませんでした。

と、これだけだと意味不明なので、もう少し詳しく書いてみようと思います。

この作品を先に見た人たちからの応援メッセージの中には、「精神病患者と健常者の境がわからない」「一体誰が健常者なのか」といったコメントが結構ありました。おそらくこのコメントこそが、この作品の本質(というか物事の本質)を捉えているのではないか、と思うのですよね。

特に精神病関連の障碍の中には、健常者と障碍者の「境界」がはっきりしない・分かりにくいというものが結構あります。例えば、一般に障碍者と呼ばれている方々は、「普通の人」が備えているべき機能を備えていないことを以て障碍者と呼ばれているわけですが、ではこの「普通の人」とはいったい何なのか? 簡単に言えば、それは「人類全体に対する統計分布を作ったときに、中央付近にいる人たち」のこと。けれども「統計分布的な広がり」というものを考えてみると、そもそも「健常者」と「障碍者」の「境界」というのは、人間が恣意的に定義・設定したものにすぎないのですよね。

作中で、ある患者さんが、「欠点のない人などいない」「全人的な人(=知・情・意の完全に調和した円満な人格者)なんて人もどこにもいない」とおっしゃっていたのですが、実際その通り。人は誰しもが、平均値(中央点)からの「ずれ」(偏差)を持っている。もしその「ずれ」を欠点だというのであれば、欠点がない人なんてどこにもいない。ただ、その偏差が大きすぎると、「群れたがる」傾向を持つ人間の中で生きていくのは難しくなる。特に日本では、文化的に「みんなと同じであること」(=平均値に近いこと)を良しとする傾向があるので、偏差が大きい人というのは、どうしても生きづらくなるのですよね。

でも、そうした「偏差」を、「欠点」「障碍」と捉えずに、その人の「個性」「特性」と捉え、それをうまく生かせると、物事の結果は全くといっていいほど変わってくる。例えば、天才的な業績を残したニュートンやアインシュタインは高機能自閉症(アスペルガー)だと言われているし、数々の傑作を遺した太宰治や尾崎豊などは境界性パーソナリティ障害(ボーダー)だと言われている。それはなぜか? アスペルガーの人は、自分の興味のある分野に極端に埋没する傾向があるため、確かに極度に KY だけれども、その半面、その分野では驚くべき才能や知能を開花させることがある。あるいはボーダーは、極端に感受性が強すぎるために、自分も周囲もその感情で振り回してしまうことがあるけれども、その半面、驚くべき豊かな感性を以て周囲の人を感動させる作品を作り出すこともある。

こうした結果は、いずれも「みんなと違うこと」(=偏差)を、マイナスからプラスに転じたことによって、「みんなにはできないこと」を見事に成し遂げた例だと思うのですよね。実際、作品中でも、患者さんたちが、素晴らしい詩や俳句を読み上げていて、類稀なる感受性の高さと豊かな感性を見事に活かしている姿が描かれている。そうした姿を見て、「自分にはとても真似できない」と思った方も多いでしょう。(少なくとも私には無理;だし、そういう感性を持っている人を羨ましく思うところもあります。)

こうした「マイナス」(偏差=欠点)を、「プラス」(偏差=特長)に転じることは、誰だって大なり小なり似たようなことをしているはず。例えば、私は小さい頃から運動が大の苦手だったわけですが、そんな人はどうすればいいのか? ① 努力して体力をつけて苦手を克服するか、② 運動があまり問われない別の分野で別の才能を開花させるか、③ そもそも運動が苦手であることを逆手に取って何かを成功させるか、などの解決を図るはず。自分に与えられた環境、持っている特性、持っていない特性などを、『自分自身』の問題や課題として捉え、それを前提条件として受け入れて生きていくこと。それは、人間ひとりひとりに与えられた宿命とでも言うべきものだと思うのです。

ただ、それは一人ではなかなかできない、ということも多くて、回りのサポートや手助けが必要になることもある。そしてその「必要とする」サポートの度合いは、偏差の大きさによって変わってくるのではないか、と思うのですよね(=普通の人でも欠点を長所に変えていくことは難しいが、大きな心の病を患う人は事の他に難しい)。

この点において、今回の作品で取材されている「こらーる岡山」の取り組みは素晴らしく、心の病を患った人たちを単に患者さんたちとして扱うのではなく、牛乳配達や食事サービスなどを行う事業を同時に営むことで、組織的に地域社会で暮らせるように、つまり患者さんたちの自立を支援するような組織的なアプローチを取っている。(こういう総合的な取り組みをしている診療所が日本にある、ということを知ることができただけでも、この作品を見る価値があったと思いました)

ところがこの作品は、フィルムの最後の最後で非常に大きな難題を突きつけてくる。
それは、「サポートとは何か?」という問題

作品の最後では、患者さんの一人が交渉のために市役所(?)と電話をするのですが、閉館時間を迎えた事務所に居座って、その電話に没頭してしまう。閉館の施錠をするスタッフが退出を促しても、それにろくに取り合うこともなく電話に没頭し、挙句の果てには煙草まで吸い出す。何度目かの注意にようやく電話を切ったと思えば、スクーターに乗って信号無視して交差点を突っ切っていき、そして終劇。

この1シーンだけ切り出してみれば、「どうしてあそこまで空気が読めないのか分からない」「どう見ても自分勝手でわがまま」といった感想になるかもしれないし、優しい人なら、そうせずにはいられない患者さんの心の病に共感するかもしれない。いずれにせよ、終劇の後に残った、劇場の何とも言えないどんよりとした空気は、どう表現したらよいのかわからない観客の戸惑いに満ちていたように感じられるのですが、ではこれを果たしてどう考えたらよいのか?

この患者さんがどのような病を抱えているのかは専門家ではないのでわかりませんが、昔に読んだエントリで、あらゆるパーソナリティ障害に共通するのは、(方向性は様々だけど)自分に対する強いこだわりである、と説明しているものがありました。簡単に言えば、自分のことで手いっぱいになって、他人のことまで十分に気が回らず、他人に迷惑をかけてしまう、というもの。この患者さんの場合も、おそらくは自分の電話のことで頭がいっぱいになってしまって、回りのことまで気が回らなくなり、結果的に、閉館出来ずに帰れなくなっているスタッフの迷惑のことに気づけない。そんな雰囲気に見えました。

本人の心の苦しみに共感すれば、そういう行動を取ってしまうのもある程度やむなし、と許容することもできるかもしれないし、下手に退出を強制して刺激をすれば、どんなに正論であっても反発を買う恐れもあるから敢えて何も言わない、ということになるかもしれない。結果的にこのスタッフは無理に退出させることをせず、我慢を重ねて、当人が自分から帰ることをじっと待っていたのですが、最後にはお詫びの一言もなくけろっと帰っていく姿は果たしていかがなものなのか? あるいはそれを許してしまってよいのか? それは結果的には、当人の甘えを助長しているだけでは? ……などと考えていくと、そこには非常に根深い問題が横たわっている、と思うのです。(実際、作中では、家事をうまくこなせない患者さんに少しでも家事をこなせるようにサポートするスタッフの姿にスポットも当てられていました。これは、当人の甘えを助長することなく、本人の自立を促すための取り組みと言えるでしょう。)

つまり、心の病を持つ人たちの苦しみや辛さを共感し慮り、その偏差をマイナスからプラスに転じていくためのサポートをすることは大切。けれども、だからといって本人たちのわがまま(=他人の気持ちを慮れないこと)を助長してはいけない。そのバランスや線引きは、実際には恐ろしく難しいのではないか、と思うのです。

例えが適切かどうかは分かりませんが、例えば昨今、運動が苦手な子供のために、運動会のかけっこで順位を付けるのをやめよう、という動きがあると聞きます。けれどもこれは本当に子供たちのためになるのかどうか? 「運動が苦手」な子供にとって、「運動が苦手」だということをどう克服していくのかは、その子が解決していかなければいけない(内面的な)課題。なのに、それを他の人間が外から解決しようとする(=回りが変わることによって解決を図ってしまう)と、むしろ本人の自立を阻害してしまうことになってしまう。

こういう視点で見た場合、あのスタッフの行動は、果たして適切だったのか、そうではなかったのか? どのタイミングで、どうやって本人に伝えるのが、最も適切なサポートなのか? そう考えると、これって恐ろしく深い問題ではないか? と。

私はあのラストシーンから、そうした極めて難しく微妙な問題に関する問題提起を感じたのですが、でも、あの構成では読後感の印象の悪さ(精神病患者のわがままさ、そしてそれに振り回されるスタッフや健常者たちという構図)が際立ってしまう。監督の言う、「健常者と精神障害者との間の見えないカーテンを取り払う」に、全く逆行する(=健常者側からむしろ積極的にカーテンを引きたくなってしまう)結果を誘発しているように思えてならないのです。

# というより、編纂している時点でそこには何らかの『意図』が入ってしまって当たり前なわけなので、
# 「私からのメッセージというのはない」と言ってしまうのはずるいと思うのですけどね;。> 監督さん

あらゆる人は他人とは違っている。全人的な人なんてこの世の中には存在しないわけで、そうしたちょっとずつ「おかしな人」が集まってこの世の中は構成されている。その「偏差」をどうするかは、結局のところは当人にしか解決できない問題だし、当人が背負うべき課題。もちろん、その「偏差」をプラスに転じるのには、健常者でも患者でも、多かれ少なかれ周囲のサポートを必要とすることが多い。そうしたサポートがある世の中の方が、私は素敵だと思うけれども、半面、サポートとは何か? という難しい問題に直面せざるを得なくなる。安易な共感でもなく、安易な救いでもなく、本当に相手のためになることは何なのかを突き詰めて考えることは、とてつもなく難しい問題だなぁと改めて考えさせられました。

……とまあ、あれこれいろいろと書きましたが;、でじくま氏の言うように、「精神科の患者さんが実際にどういう思いを抱きどういうことに苦しみながら生きているかを知るチャンスはほとんどない」というのはまさにその通り。「カーテンの向こう」に隠されていた精神科の世界を垣間見れる、類稀なる機会とも言えるので、見てみても決して損はない、と思います。人により思うところ感じるところはいろいろあるでしょうが、そういうことを考えることこそが貴重なフィルム、と言えるかもしれませんね。いつまで上映されているのか微妙な作品なので、見るなら早めに見ておくとよいと思います。


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コメント(1)

 この映画の作成に関して監督が考えたことや試写会での反響をまとめた本がありまして、そこにラストカットに「彼」を登場させてザラッとした違和感を客席に与えることについて記述がありました。
 簡単に言えば、「その違和感が何に由来するのか」という疑問を持ちその疑問に対して自分なりの解答を出すという宿題を観客に与えたいという思いがあったようですし、それに対してまちばり氏が考えを巡らせているということ自体が、監督からの「(非言語的な)メッセージ」をしっかり受け取った証だと思います。

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