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Steins;Gate

というわけで、先日こちらのゲームをクリア~。

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ええと、XBOX360 版の Steins;Gate。実は初回限定盤をわざわざ通販で購入しておいたのですが、結婚がらみのバタバタがあったせいでまったくプレイできず;。1 年近くも放置していて、ここ一週間ほどでようやくプレイした次第だったりします。複数方面から神ゲーだからやれと言われ続けており、奥さんと一緒にやるべきだ! という助言すらあったぐらいなので、二人で仲良く一緒にプレイしてたりしました^^。

総じて感想を言えば、非常によく出来ているんだけれども自分的にはちょっとイマイチかなー、という印象。ネタバレ排除のためにここ一年間、ずっと情報を封印してきて初心で臨みましたが、過去に出会った名作群ほどではないな、という感じ。まあ十二分によく出来てはいるのですが、いまひとつオカリンのキャラが受け入れられなかったこと、そしてこの作品を誤ってメタ解釈しようとしてしまったために作品に没入できなかったことが大きな敗因でした。おかげで作品も楽しみ切れず、煮え切らずに終わってしまったワナ;。まあせっかくなので、あれやこれやとつれづれ書いてみたいと思います。

# 超長文インプレですのでご注意を;;。

★ 以下、作品設定などのネタバレが多数盛り込まれているので、未プレイの方はご注意ください。1 年近く前の作品なので、文字反転はせずにそのまま書き込みます。


■ 作品設定について

作品を読み解く上ではその設定に対する理解が欠かせませんが、特に重要な設定として、「因果律」「世界線」「Dメール/タイムリープ/タイムマシン」「リーディングシュタイナー」があります。まずはこれらの設定がなんなのかを簡単にまとめます。

[因果律]

常に先に「原因」があって、後に「結果」が生じる(=つじつまが合っている)、というルール。D メール、タイムリープ、タイムマシンのいずれを使う場合であっても、この因果律は常に守られなければならないように世界が構成されます。因果律は、この作品で最も重要かつすべての構造において守られている絶対則です。(紅莉栖が複数回にわたってこの因果律の重要性に触れているのはこのためでしょう) この因果律は、各世界線の中で守られると同時に、各人の主観視点の中でも守られる、という二重構造を持っているのがポイントです。(詳細は後述)

[世界線、世界線の収束]

作品中では、世界線という用語が二つの意味に使われています。ひとつは、「過去から現在、そして未来へと向かう、『ひとつの』時間の流れ」(いわばロープを構成する中の一本の糸)。もうひとつは、そうした一本ずつの世界線が束になって構成されている「世界線の束」とでも呼ぶべきもの。本インプレの中では、この二つを区別するために、後者は「世界線の束」と呼ぶことにします。

世界線は、それ自体は一種のパラレルワールド(多世界解釈における並行世界)のようなものです。(※ 本作で多世界解釈が否定されている理由については後述します。) 「世界線の束」に属する各世界線では、細かいところがちょっとずつ違うけれども、必ずほぼ同じ「鍵となるイベント」が発生し、必ずほぼ同じ「結末」に到達します(これを「世界線の収束」と呼ぶ)。例えば、世界線束αでは、過程はともかくまゆりんが死に、ラボがバラバラになり、紅莉栖は SERN に捉えられてタイムマシンの研究をすることになり、2036 年には SERN によるディストピアが完成します。世界線の束は、アトラクタフィールドにより束ねられており、アトラクタフィールド境界の外側にある世界線(世界線の束)に移動しない限りは、同じ結論に達してしまいます。下図のようなイメージで考えるとわかりやすいと思います。

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この作品では、おおまかに 2 つの世界線束 αとβが存在し、2010 年に大きく分岐する形になっています。その狭間に Steins;Gate 世界線が存在する、というのはご承知の通り。

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[D メール、タイムリープ、タイムマシンとは何か]

因果律に逆らう現象を起こすことで、「主観(自分の見ている世界)」を無理矢理、別の世界線へと移動させる装置、と考えると分かりやすいです。これだけだと意味不明なので、以下に説明を加えます。

[D メール]

過去にメールを送ると、同一の世界線上の過去には「そんなメールが届いた」という事実はないのだから、矛盾が起きてしまいます(因果律の破壊)。そのため、『「何かの偶発的トラブル」によって、その時点にメールが届いたという怪奇現象が起こった世界線』へと主観が移動することで、この矛盾を解消します。(※ 世界線は無限に存在するので、そんな奇怪な現象が起こった世界線もどこかには存在するはず)

この世界線では、「なんだかよく分からないけれどもメールが生じた」事実はあっても、「過去に向けてメールを送った」という事実は存在しないので、送信メールは消失します。

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なお D メールの送信により、主観は世界線α1からα2へと移動します。作品中では描かれていませんが、万が一、主観が世界戦α1に残り続けた場合には、「メールを送ったが」何も起こらなかったという世界(=D メールが過去に届いたという事実も存在しない世界)が継続するはずです。(上図の赤い点線の丸の時点にメールが届いたという事実が発生してしまうと、過去の事実と矛盾する=因果律が破れてしまうため。)

ゲーム中では、実際に「メールを送ったが何も起こらなかった」という事象も発生していますが、これは次のような現象と解釈できます。送ったメールが強制力の弱いものだったり、過去に大きな影響を及ぼすものでなかった場合には、「同一世界線束に属する世界線は収束していく」という世界線の特性により、途中の紆余曲折を経て、(現在を見れば)ほぼ似たような世界線α3にしか移動できません。よって、あたかもリーディングシュタイナーが発現していないように感じられます。

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次にタイムリープについて考えてみます。

[タイムリープ]

もし本当に(同一線上の)過去に記憶を送ることができたとすると、同一世界線上では「そんな記憶は持っていなかった」のだから矛盾が起きてしまいます。そのため、『「何か神のひらめき」によって、その時点に未来を思い出したという怪奇現象が起こった世界線』へと主観が移動することで、この矛盾を解消します。(下図のα1→α2)

ただし、このタイムリープ自体(α1→α2)ではダイバージェンスはほとんど変化しません。これは、タイムリープを起こした時点ではまだ「未来の記憶を思い出した」だけだからです。仮に未来の記憶を思い出したとしても、それはいわば「デジャヴ」「夢」「勘違い」のようなものにすぎず、その後、過去にいた世界線α1とほぼ同じ行動をすれば、α1とα2はほぼ同じ世界線にしかなりません。このため、世界戦α1とα2のダイバージェンスの違いは微小(下 6 ケタ以下)でしょう。タイムリープの際にダイバージェンスメータ変動の CG が出てこないのはこのためだと思われます。

しかし、この世界線α2 で、具体的に何かしら「未来のことを知らなければできない大きな事象」(α1線では決して起きえないようなこと)を起こすと、世界線α2 での因果律が破たんします。これにより初めて矛盾が生じ、主観が大きく移動します(α2→α3)。

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タイムリープでα1→α2に移動したとき、主観がα2の過去時点になぜ移動するのか?についての明快な答えは作中では出てきません。主観の世界線間の移動自体がファンタジーな設定なので、おそらくここはゲーム上の都合によるものでしょう。

[タイムマシン]

タイムマシンでの過去への移動についても原理は同一です。ただし、タイムリープとは異なり、『本来いるはずのない人間がそこにいる』という状況が生まれることになります。このため、下図の世界線α2は非常に危ない世界で、例えばここで過去のオカリンと未来のオカリンがバッタリと出くわした場合には、深刻なタイムパラドックス(因果律の破壊)が起こるはずです。(万が一、因果律の破壊が発生した場合に何が発生するのか(例:それこそ世界が崩壊するなど)については不明。)

そもそもこのゲームでタイムマシンが可能なのか?という議論もあるようですが、因果律を壊さない限りにおいては、タイムマシンで「タイムマシンが突如現れた」世界線へ主観を移動することができる、ということになります。

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タイムマシンを使うこと自体でのダイバージェンス変化は極小です。しかし、そこで「未来のことを知らなければ or その物質や人が存在しなければ発生し得ない大きな事象」が起こると、因果律が乱れ、主観が移動します。

[「世界を騙す」とは何か?]

タイムマシンに乗って移動し、『因果律を壊さずに』(矛盾が起こらないような形で)論理的につじつまの合った世界線α3を構築し、そこに主観を移動させろ、ということ。(ここで言う「世界」とは、因果律に守られたこの世を形作る「ルール」のことを意味しています。ルールは守っているけれども、反則っぽいことをやれ、という意味ですね。)

[「リーディングシュタイナー」とは何か?]

世界線間での主観の移動は、D メールやタイムリープ、タイムマシンを利用した際に、「因果律を崩さない」ために起こるものです。しかし、この際に「どの程度、前の世界線の記憶をきちんと保持しておけるか?」に関しては個人差があります。主人公である岡部の場合は、ほぼ完全に手前の世界線の記憶を保持したまま世界線を移動できますが(作中で言われるリーディングシュタイナー能力)、ほとんどの人間はそこまで明確に記憶を引き継ぐことができず、夢やデジャヴといった曖昧な形でしか記憶を引き継ぐことができません。また、岡部であっても微小なダイバージェンス変化しかない世界線に移動した場合(=「現在の状況がほぼ同じ」世界線に移動したとき)には、世界線間の移動を認知できない、という設定になっています。

[「世界を再構成する」とは何か?]

この作品では再三、「多世界解釈ではない」という表現が使われていますが、このポイントは作品解釈上、極めて重要です。詳細に解説すると、以下の通りです。

まず、多世界解釈では、あらゆる世界線が実際に「存在する」と解釈され、そのいずれもが「ホンモノ」であると解釈されます。しかし、この解釈は作品中ではこの考え方は幾度となく否定されています。これは、あらゆる世界線が実際に「存在する」わけではない、ということを意味します(本当に存在していると、多世界解釈になってしまうため)。下図で言うと、灰色の点線(各世界線)は、「もしかしたらそうなったかもしれない世界(歴史)」に相当しますが、実際にその歴史が存在しているわけではありません。(あくまで可能性世界、ということです。)

その一方、作品中では、「主観」の連続性、すなわちオカリンの意識の連続性と、『意識』という線で見た因果性が重要視されています。これはすなわち、「主観が存在している」ところに関しては確かに世界が存在している、ということを意味します。下図で言うと、青い実線のところについては、確かに世界が存在しているということになります。

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この際、以下の 2 つの因果律が同時に成立している、というのがこのゲームのひとつのポイントになっています。

  • 灰色の点線ひとつひとつについて、因果律が成立している。
  • 青い実線の流れについて、因果律が成立している。

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そしてもう一つ重要なのが、「世界を再構成する」という表現です。ここまでは、リーディングシュタイナー能力に関して、「世界線間を移動する」として説明をしてきましたが、この説明は厳密には不的確です。なぜなら、この説明だと各世界線が「存在している」ことになってしまうため、多世界解釈になってしまうからです。そうではなく、下図のように、オカリンの主観の移動とともに、『現在の世界のあり方が変わる』と考えるのが正しいです。下図はこれを模式的に示したものです。黒い実線は、「オカリンの主観から見た『世界の歴史』」ですが、タイムリープや D メールなどを使うことで、別の灰色の世界線(=もしかしたらそうなったかもしれない歴史)を、黒い実線(=本当の歴史)に塗り替えてしまいます

つまり、「世界を再構成する」とは、現在の歴史の流れを、別の歴史の流れに塗り替えて取り替えてしまう、ということを意味します。(このため、別の世界線に移動する、という表現よりも、目の前の世界を別の世界線に取り替える、という表現の方がより的確です。)

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これは、言い換えればオカリンが自由に世界線を再構成できる、すなわち世界のあり方を自由に変更できる、というふうにも取れそうですが、そういうわけではありません。(それではオカリンはただの人生チート野郎、です;。) 世界を再構成するためにはひとつだけ条件があり、青い実線の流れで見たときの因果律が守られていなければなりません。作品の最後で、15 年後の岡部から「お前のしてきたことは、無駄ではなかった」というセリフが語られますが、それは岡部がヒロインたちの幸せを取り消すという行為をしてこない限り、青い実線の流れでの因果律が守られず(つじつまが合わず)、結果として Steins;Gate 世界線(=True End)にはたどり着けなかった、ということを意味します。

要点をまとめると、以下の通りです。

  • 複数の世界が並列的に存在しているわけではない。あくまで世界はオカリンの目の前に広がる世界ひとつのみである。
  • 各世界線(各可能性世界)は、それぞれ単体で見ると、前後関係(つじつま)が合っている。
  • オカリンの主観での認知、すなわち青い線の流れを追いかけても、つじつまが合っている。
  • 無限にある世界の可能性の中で、今まさにオカリンの主観が存在している場所にのみ、本当に世界が存在している。
  • オカリンは、青い因果律を守るという前提条件のもとで、今の世界線を別の世界線に取り替える能力を持つ。(=世界を再構成することができる)

■ メタ解釈をすると失敗する作品

さて、以上が本作の作品設定であり、この作品は簡単に言えば、岡部倫太郎が、目の前に見える世界でどうやってまゆりんと紅莉栖を助けられるのか(=どうやったらまゆりんと紅莉栖が生き続けられる世界線へと再構成させられるのか)、必死に考えてもがき苦しむ作品である、と説明することができるでしょう。乱暴に言えば、それ以上でもそれ以下でもない作品であり、オカリンがこの世を支配する因果律というルールと立ち向かい、もがき苦しむ姿にこそ意味がある作品……なのですが、私がこの作品に感情移入できなかった最大の理由は、この作品をメタ解釈しようとしてしまったことにありました。特に、リーディングシュタイナー能力がメタ解釈にうってつけのネタだったためにミスリードしてしまったのですが、この作品、メタ解釈しちゃいけない作品なのですよね;。まあ終わってからそのことに気付いても時すでに遅し……なのですが、もうちょっと補足すると以下の通りです。

[メタ解釈とは何か?]

メタ解釈とは、作品を俯瞰的に解釈することで、作品に込められた別の意味を引き出そうとする解釈手法です。もうちょっと簡単に書くと、作品中の人物や世界をそのまま実在の人間や世界のように考えるのではなく、一種の箱庭世界のように捉え、プレイヤーをその箱庭世界の「外」の存在、言い換えれば神のような視点を持つ存在として、一歩離れて作品全体を俯瞰して見る、というものです。こうすることにより、作品の設定(舞台設定やキャラクター設定)などに別の意味を見出していこう、というのがメタ解釈と呼ばれる手法です。

メタ解釈は別に珍しいものではなく、ゲームやアニメの解釈では非常にありふれたもので、実際、メタ解釈をすることで作品の意味が理解しやすくなることは多々あります。例えば、なぜ岡部はリーディングシュタイナー能力を持つのか? これは、作品を以下のようにメタ解釈することで、非常に綺麗に説明することができます。

  • 岡部は、この作品における主人公であり、プレイヤーそのものである。
  • ゲーム中のすべての事象は、プレイヤーたる岡部の「主観」(=意識や自我)を通して観測されている。
  • 前述の世界線解釈に示した、岡部の主観での時間軸(青い実線の流れ)は、作品中の世界での時間の流れではなく、これをプレイしているプレイヤーの現実世界の時間の流れであると解釈できる。
  • 岡部(=プレイヤー)が見ている世界がすべてである。なぜなら、岡部が見ていない世界については、ゲームディスク内にプログラミングされていないからである。

過去の類似のゲームでは、こうしたメタ解釈がピタリと当てはまるような作品もあり、そうした経緯もあって、ついつい私はこの作品をメタ解釈してしまったのですが、この作品はメタ解釈するといろいろとハマるのですよね;。

[この作品でメタ解釈をしてはいけないのはなぜか?]

なぜこの作品でメタ解釈をしてはいけないのか? その理由は、メタ解釈をしてしまうと、岡部がリーディングシュタイナーを持つことに関する理由づけが出来てしまうからです。この作品は、「たまたまなんだかよく分からないけれども、自分が神様みたいな能力を持ってしまった!」ということを無条件に受け入れる必要があり、なぜ岡部がこんな能力を持つことになったのか? なんて真面目に考えてしまうと、作品そのものがいろいろとシラけてしまうのです;。

というのも、もし岡部がリーディングシュタイナーを持つのが主観視点を持つためだとしたら、まゆりんや紅莉栖だって、彼女たちから見た世界(=彼女たちが主観を持っている世界)であれば、リーディングシュタイナー能力を発現させていてもおかしくない。ところが、この作品は、最初から最後まですべての物語が岡部の主観で語られる。これは裏を返せば、「岡部の主観からで見た世界しか見ることができない」ということを意味し、「作品中でプレイヤーが見ているのは、『岡部にとっての世界』でしかない」ということを意味してしまいます。このため、この作品では、「ヒロインの主観がどこにあるのか」は最後まで分からない。もしかしたら、本当のヒロインは別のところに存在していて、彼女たちはオカリンとは異なる世界線の上で生きているかもしれないのです。

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メタ解釈に基づけばこうした解釈も成り立ちうるのですが、もしこのように解釈してしまうと、岡部が助けたのは NPC としての(=ホンモノではない)まゆりんや紅莉栖でしかなく、オカリンのあの苦しみは、自分にとって都合のよい世界を作り上げるための努力でしかない、ということになってしまう。15 年後の岡部が過去の自分に対して、「お前がしてきたこと(=別の世界線で各ヒロインを救済したものの、彼女たちを幸せにしたことを『なかったこと』に変えてきたことは無駄じゃない」と語りかけるセリフも、ヒロインたちの救済を意味しない。なぜなら、そこにはヒロインたちの「主観」がない(あるかどうか分からない)からです。このセリフの意味は、岡部がしてきたことは、岡部の「主観」という連続性の中で、岡部にとって無駄ではなかったということであり、そうした岡部の行為があったからこそ、岡部の「主観」を Steins;Gate 世界線へと導くことができるのだ、ということ。つまりこれは岡部の主観からの救済、言い換えれば岡部の「心」の救済でしかなく、本当の意味でのヒロインの救済にはなりません。……いやそりゃシラけるよね、という話になってしまうのです;。(← 私はこのセリフを見て、「なんだこりゃ??」と気持ち悪さを覚えたクチです;。)

[メタ解釈を拒む作品]

ここで私が述べた問題は、哲学的テーマのひとつである「自我/他我問題」です。自我/他我問題とは、「他人の自我(=他我)は自身の自我の認識境界の外にあるため、他人に自分と同じような自我が存在することを証明できない」というもの。簡単に言えば、「私が見ている世界と、あなたが見ている世界とが、同じであることを、証明する手立てがない」というものなのですが、この作品では、この自我/他我問題を、触れてはいけないモノとして取り扱っています

例えば、自分だけがなぜリーディングシュタイナー能力を持つのか、という問題に関して岡部は全く深入りをせず、「なぜならば私は神だからだ! フゥーハハハハ!」のひと言で済ませてしまっている。主観から見た世界において自分が特異的な存在(=神)になるのは当たり前のことなのに、そのことに何ら疑念を差し挟まないのですよね。また、作品中において鈴音が「意識の問題は 2036 年でも解決していない」と語りますが、これは、自我/他我問題が 2036 年でも解決されていない(=他人の主観というものがそもそも本当に存在するのかどうかすらも証明されていない)という意味です。要するに、この作品では、自我/他我問題はアンタッチャブルですよ、という姿勢をはっきりと打ち出している

だから、この作品はもっと単純に捉えればよくて、岡部にシンクロして、「(自分から見た)世界において、(自分から見た)ヒロインたちは救われた! まゆりんも紅莉栖も死なずに済んでハッピーエンド!」だと思えばそれで十分な作品、なのです。ホントのヒロインはどこにいるのか? なんてややこしいことを考える必要などまるでない、のです。

……けれども、それはまあわかるんだけれども、やはり私にはどうにも気持ち悪く感じられるところもあるのです。

■ 本作において他我問題を議論の対象としないことへの疑問

ここまで書けばもうだいたいお分かりと思いますが、私がこの作品においてどうも気持ち悪さを感じるところは、自我の特異性をリーディングシュタイナー能力というギミックで作品中の設定に取り込んだにもかかわらず、作品中で他我の問題に全く触れようとしないところにあります。

確かに、「主観を通してしか事物を見ることができない」という考え方は全くおかしいものではないし、そもそもそれは、西洋哲学の根本にある思想のひとつだと思います(書き出すとキリがないのでここでは省略)。また、我々の日常生活においても、他我の存在の有無については議論しないのがふつう(=目の前にいる女の子が NPC なのかホンモノなのかなんて議論しないのがふつう)だし、自分の主観を信じ、目の前に見える世界で頑張るしかない。それが当たり前だし、それが現実世界を生きるということだと私も思います。けれども、それは自分と目の前の女の子が同じであるはずだという前提条件があるからです。自分が神でもなんでもないからこそ、「自分には自我がある、ということは、他の人にも自分と同じように自我があるのが当然だ」と思うのです。

ところがこの作品は、その前提条件を崩しているのですよね。岡部はリーディングシュタイナー、神の目を持つ、と。

もちろん、このゲームの中で他我問題を議論することは現実的とは言えないし(複雑になりすぎる)、それが本論じゃないことは百も承知している……のですが、どうにもバランスが悪い。このゲームをプレイする際に、「自分の心の問題」のみに焦点を当て切れるかどうか、「目の前にある世界」を何ら違和感なく受け入れることができるか、言い換えれば岡部に感情移入しきれるかどうかが、この作品の評価を大きく左右することにつながってしまう、と思うのです。もともと舞台装置として使われた「リーディングシュタイナー」という神がかった能力は、プレイヤーと主人公岡部とのシンクロ率を高めるギミックとして機能するはずだったのですが、私の場合にはその能力の特異性がむしろ感情移入を妨げる要素として働いてしまい、要らんことを考えてしまって最後までしっくりこない感覚が残ってしまった……のですよね;。だって、究極的には、自分では自分の心しか救うことができないし、自分の心は自分でしか救えない……なんて、仮にそれが真実であっても寂しすぎるじゃないですか、と。

■ 過去の作品との比較、そして Steins;Gate というゲームの特異性

こういう観点から見ると、この作品は、歴代の過去の名作と呼ばれる作品とはずいぶん性質が違うものだと思います。よく引き合いに出されるのが Ever 17 ですが、上記のような視点からすれば全く違うタイプの作品でしょう。むしろ、分岐する様々な世界をすべて体験することで、自分の主観における世界をグランドフィナーレに導くという意味においては、一般的な恋愛ゲーム、それこそ CLANNAD のような作品の方が近いと思います(CLANNAD は各分岐にそれぞれの意味・位置づけがあって、それらの思いが重なり合う場所に最後のグランドフィナーレが存在するため)。

CLANNAD のようなゲームと本作 Steins;Gate の明確な違いは、プレイヤーの主観と主人公の主観が一致するかどうかという点です。つまり Steins;Gate という作品の特異性は、要するに、分岐型恋愛ゲームにおいて、俯瞰的な視点に立っているプレイヤーの視点や心を、より深くゲーム世界の中に引きずり込む仕掛け(舞台装置)を持っているところにあります。これにより、プレイヤーを主人公により感情移入させること、そのシンクロ率を思いっきり高めることを狙ったのでしょう。……いや私の場合にはその舞台設定のおかげで感情移入できなかったんですけどね;。(でも Web を見ていると、どっっっっぷりと感情移入している人の方が多いので、私みたいな人はマイナーなのだと思います;;。)

いやもしかしたら、だからこそ岡部のキャラ造形を敢えて厨二病にしたのかもしれません。厨二病というキャラであれば、自己の存在を疑うこともなく、狂言回しもさせることができ、他人の自我なんてことに気を払うこともなく、ストレートに物語のエンディングを目指させることができる。……なんて考えるのはさすがに穿ちすぎですかね、やっぱり。(単純に、周りから見て、未来の記憶を思い出しちゃったりするヘンなヤツ、という、ストーリー上のつじつまを合わせる ために都合のよいキャラ造形だから、というのが真相だと思います^^)

にしても、返す返すも作品に乗りきれなかったのが悔やまれるところ、ではありますね;。前々から高評価ばかりを聞いていたためにちょっと身構えてあれこれ考えすぎたような気がします。突っ込んで考えたら負けな作品で、もっと単純に、気軽にプレイした方が良かった作品だったんでしょうねぇ^^。いやはや、ちょっと失敗しました;。

# まあやたらとエントリが長いのは、乗り切れなかった悔しさゆえと笑ってやってください;;。うぐぅ。


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