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さくら壮のペットな彼女 vol.4

「少し前のお前は、もっとやってたよ! とことんまでクォリティ上げるのに専念してただろ!」
「……」
「描くことを許されてるやつが、手ぇ抜くようなことをするな!」
「……そんなこと」
「連載代わってほしいやつなら、いっぱいいるんだぞ!」
「そんなこと言うなら……」
「なんだよ」
「そんなこと言うなら、わたしから出ていって!」

というわけで今日はこちらのインプレをひとつ。

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さくら壮のペットな彼女 vol.4。天才少女画家だけれども生活能力ゼロのましろ、その生活世話役を命じられた空太、そして二人を取り巻く多彩なキャラクターたちの物語……なのですが、相変わらずいい味を出している作品だなぁ、という印象。

この作品の軸になっているのが、天才少女と凡人彼氏、という構図。凡人がどれだけ努力しても得難い才能を持つ少女たちに劣等感を覚える彼氏、というのが基本的な構図で、それが故に、本来であればスムーズにいくはずの恋愛関係がうまく進まない。割り切って堕ちてしまえばラクなものを、その眩いばかりの才能に気後れせずにはいられない彼氏という構図……なのですが、天才視点、凡人視点のどちらにもそれ相応の言い分がある、というのがこの作品の面白いところ。冒頭の引用は、どうしてもオーディションに合格できない凡人彼氏が、恋愛感情で仕事がおろそかになっている(それでもきちんと最低限の仕事はこなしている)彼女に対してイライラをぶつけてしまい、それに対して言い返されるシチュエーションなのですが、こういうテーマって、本当にいろいろ考えさせられるのですよね。それは、天才は天才としての生き方しか許されないのか?というテーマ。

空太の言い分は、才能を持った人間にはそれ相応の責任が伴うべきだ、というもの。確かにそれはノブレス・オブリージュ的な思想として(少なくとも本人が望む限りは)納得感のあるものではあるのですが、では才能を持った人間は、その生き方しかしてはならないのか?という話になると、そういうものではない。命や人生というものは、人間それぞれに与えられたたったひとつのものであって、それをどのように生きるのかを選ぶのは本質的に本人の自由。だから、才能を持っている人がノブレス・オブリージュ的な思想(=才能を持った人間はその分恵まれているのだからその才能を社会に還元すべきだという思想)を持たずにごく平凡な人間として生きるという選択肢を取ったとしても、それは誰からも責められるべきものではないはず。けれども、平凡な人間からすると、それは至極羨ましい選択に見えてしまう、のですよね。

実はこれを呼んだときに真っ先に思い出したのが、先日のゆかりん Live の千秋楽ダブルアンコールでのゆかりの MC 発言。仔細はでじくま氏の blog が詳しいのですが、発言の要点をまとめると、歳を取れば取るほどゆかりのようなライブは難しくなるけれど、ファンがいる限りは続けたい、というもの。私はこの発言を聞いたときに、「ああ、この人は選んじゃった人なんだな」と思ってしまったのですよね。もちろん、本来的に二者択一なものではないとは思うのですが、誰か好きな人と二人だけの暖かい幸せを作っていくことよりも、たくさんのファンからの声援と期待を背負って、アイドルという偶像を演じ続けてこの世界を維持し続けることを選んでしまった人なのだな、と。それは良し悪しの話とは別次元の、その人の人生の選択そのものなので、良し悪しを議論すべきものではない……のですが、それでもなお、一抹の寂しさを感じたところではあるのですよね。確かに、それだけを目指すことでしか到達できない高みもあるけれども、それはひどく歪な生き方かもしれないわけで、人間、そこまで割り切れる心の強さをいつまでも持ち続けられるものなのだろうか、と。

これって結局、永遠に答えが出るテーマではなくて、もうケースバイケースで本人が納得する答えを出すしかない(or 答えを出さずにずるずると行くしかない)ものだとは思うのですが、才能を持った人の責任と自由、というテーマは何度見ても考えさせられるものです。いや、こういうテーマは考えることにこそその本質的な意味があるのかもしれないのですけれどもね。


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